十冊目 【自然を生きる】

【自然を生きる】

著者:玄侑宗久 釈徹宗

出版社:東京出版

横のままでいようと思ったら、強固な組織を作らないことです。親鸞は弟子をひとりも持たず、集まってきた仲間を「御同行」と呼んでいました。あくまで対等で権威づけをしたくないという、積極的な意志があります。

我々の生きる現代のような縦社会のモデルを本書では「馬の文化」と呼んでいます。馬の群れを統率・管理するために、力による序列や秩序を重んじる文化です。河合集雄さんが「父系原理」と呼んだものと同質です。そして横社会のモデルを「船の文化」と呼んでいます。ひとつの船で目的地まで生き残らなければいけないので、力による序列や統率より、対話による連帯を重んじます。こちらは「母系原理」と同質です。

そして、縦横それぞれの長所と短所があるのですが、僕は織物と同じように縦横のバランスが良いのが一番いいのではないかと思っています。日本は横が中心の社会です。意外かもしれませんが、それは極めれ高度に成長した現代社会の中でも脈々と生き続けています。その昔「村落共同体」と呼ばれる村社会が日本を支えていました。それは、「一生面倒をみる」「年長者を敬う」「団結して個人を守る」という、約束のうえに成り立っていて、個人より集団の維持を大切にする社会でした。そして、明治から始まった西洋化は戦後に、村社会を解体して、家族を個人にすることで急速に発展しました。「一家に一台」が「ひとり一台」になったのです。こうして消費は爆発しました。

しかし、壊してしまった村落共同体の変わりが必要になります。そして「公団住宅」や「会社」がそれを担います。コミュニティデザインという言葉が生まれたのも、高度経済成長の時代になります。そして新しい共同体、「企業共同体」は「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」を約束事として、村社会の時とは違う、個人が自由に生きられる社会を示しました。

だけど、ここでちょっと考えないといけないのが「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」という企業のルールは、実は「一生面倒をみる」「年長者を敬う」「団結して個人を守る」という村落共同体のあり方とほとんど同じだということです。つまり、縦社会だと言いながら日本は今でも横社会のあり方が生きているんですね。日本は縦社会と言いながら、「力がすべて、合理的な判断できりすてる」みたいな戦場における「馬の文化」になり切れずにいます。しかし、日本がお手本にしてるアメリカはそういう社会です。だけれども、アメリカにはそのような社会を個人が受け止める受け皿としての仕組みがたくさん存在しています。いいところだけを真似して、悪いところに蓋をしていますが、実は無意味に見えているアメリカ社会の欠陥こそが、アメリカをアメリカたらしめている大切な要素だったりします。これも縦横が重なってこそ強い社会になるということに繋がる気がします。

日本は、村社会のようなシステムを悪として、新しいシステムで塗り替えようとしましたが、呼び方と暮らす場所を変えただけに過ぎなかったと僕は思います。つまり村のシステムで最大限成長する方法が企業戦士を育てることだったのでしょう。

しかい、企業が守ってくれるはずだった約束事がことごとく守られない。そんな現代を我々は生きています。いまこそ忘れ去られてしまったかに見えて、しぶとく生き残ってきた旧来の仕組みを、しっかり受け入れて取り込むタイミングなのではないでしょうか。それは「過去のシステムの発展的回帰」と呼べると思います。

そして、日本人はそういう「ありあわせで新しいものを作り出すこと」に非常に長けたタイプの文化を要しているのです。

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