十一冊目【COL】

【COL】

著者 ryoji nakashima

出版社 自主出版


つくるものはなんであれ自分のつくるものは建築である。と、半分本気で、半分そんなのは詭弁だと思いながら呟く。野菜は野菜だし、建築は建築だと思う。それぞれに役割があり、魅力がある。そこには明確な違いがある。農家には農家の、建築家には建築家の「普通」がある。 ~中略~ ところで「普通」ってなんだろう。「突き詰めた普通は、もはや普通じゃないよ」とこの土地で出会った先輩が教えてくれた。いま、ぼくは、ぼくが思う普通を普通に突き詰めている。


同じ土地に暮らす友人が、家の隣に建つ築150年の木造の蔵をひとりで直している。家業の農家を継ぐために地元に帰ってきた彼は、建築家であることをやめなかった。さて、建築家を建築家たらしめるものはなんだろうか。ぼくはそれをよく考えている。ぼくは器屋で建築屋ではないのだけど、社会学や人類学をはじめとする人文の学問を好むものとして、個人と社会を繋ぐ要素のひとつに「建物」がある。それは「もの」としての建築でなく、自己と他者を繋ぐ概念としての建築についての関心でもある。例えば、家の前に置かれたベンチや花壇は、自分が楽しむ為だけのものではなく、外と内を繋ぐ言葉ではない記号になっている。内と外を分ける壁が建築だとするのなら、その壁はコンクリートでも木の板でも和紙でも布のカーテンでもよくなる。

そう、壁にもいろいろあるのだ。威圧し遮断する堅牢な壁、内側の気配の伝わる薄く弱い壁。世の中には、そのどちらもが存在する。先ほどのベンチや花壇は後者に属する。ぼくはそんな弱く無意味で語らないものを好む。建築には確かにそのような要素があるのだ。そして、それはそのままその人の他者に対するこころの壁の厚さでもあるようにも思う。ぼくは、他者と自分の間にある壁を、「近づいても輪郭ははっきりとは見えず、点に力をこめて刺したら簡単に破れてしまう、和紙のようなもの」だと思っている。だから身近に感じる人であっても、結局はぼやっとしていて掴むことはできない。そう思っている。この近くに感じていても結局は分かり合えず、不完全な均衡を保っている状態こそが、本来の自然な「普通」の姿で、その不完全な普通こそ美しく愛おしいものだと考えている。そしてその「普通」は、ひとりでは作り出せず、周囲との関係性のなかで、浮かび上がってくるものである。

人はなにかを考える時、頭の中で声を出して音読をしている。文字を読むときも同様だ。人は目の前の誰かに話すふりをして、実は頭の中の誰かに向けて話しかけている。それを自分に言い聞かせていると言ってもいい。それは言葉だけに留まらない、物語を書くときも、絵を描くときも、料理をつくるときも、内から外に出るものは等しく「想像の誰か」という「自分自身の分身」に向けて発信している。そして、「建築」も同様の意味があるし、むしろ他のものよりも、そういった側面が顕著に現れるような気がする。それは建物というものが、個人の所有するものの中で、もっとも社会と隣接していて、しかも長期間同じ場所に存在し続けるからだ。

長く続いた村社会では氏名とは別に「屋号」というものを持っていた。「住居」と「個人」っは密接に関わっているのだ。現代においても建物は「建築家」と「施主」と「社会」の三者の共同の作品であると言える。建築はもっとも雄弁にその持ち主の想いを語りながら、建築家と社会というまったくの異質なものの言葉も語る大きな箱だ。「箱」といえば「器」と共通するところがある。どちらも中身が空なのだ。それが完成するのは、その中を満たしたのちということなる。とはいえ、器にせよ家にせよ、手渡した瞬間、受け取った瞬間が完成であると感じる人は多い。しかし、それは少しもったいないように思う、器や家に充実した中身を与えていくことは「こども」を育てることと似ている。教育とは常に、「教えているつもりでいる方が、実はもっと多くのことを学ばせてもらっている」のだ。同様に建築も常に「育っていくもの」であると、ぼくは考えている。

「変わらない」ということは「変えないこと」ではなく、むしろ逆で、日々の微細な変化に対して「調整し続ける」という変化を受け入れることを指しているのではないだろうか。例えば、ラーメン屋のスープは毎日ほぼ入れ替わっている。そして、材料も毎日同じ品質であるはずはない。それでも、老舗の味はいつ食べても変わらない。と人は言う。しかし、それは変わっていないのではない、日々材料や気候の変化に対応して、「調整し続けている」のだ。

建築もそうあるべきではないか。そして、そのような常に自己以外の要因に対して耳を澄ませて、調整をして、微細な変化を続けることを、「突き詰めた普通」とぼくは呼びたい。



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