九冊目 【世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?】

【世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?】

著者:山口 周

出版社:光文社新書

「システムを全否定する」という考え方が、結局のとこと「ダメなシステム=A」を、他の「ダメなシステム=B」に切り替えようとするだけのものでしかなかったからです。重要なのは、システムの要求に適応しながら、システムを批判的に見る、ということです。なぜこれが重要化というと、システムを修正できるのはシステムに適応している人だけだからです。


取材を受ける際によく、「これからどのようにしていきたいですか?」という趣旨の質問を受けます。僕の答えはきまっていて、「変化する時代に対応する生き方をしたいですね」というものです。ある人は消極的ですね。と笑い、ある人は社会を変えたいと思わないのですか?と言いました。だけど、自分の置かれた状況を俯瞰してみれば、僕と関わる「社会」はそんな悪でも善でもありません。産まれた時からそこにあるものであり、同時にいつまでもそこにあるものだとも思っていません。

例えば、江戸時代と明治時代に持つ我々の印象派大きくことなります。服装・言語・文化そのすべてが江戸と明治では異なります。しかし、よく考えてみてほしいのは、ある日突然「今日から明治時代だから、昨日までの価値観は全部改めましょう!」となったはずがないのです。それを現しているのが「侍」と「ヤクザ」です。侍とヤクザが大切にしている心情ははほぼ同じものです。しかし、侍とヤクザが戦うドラマは見たことがありません。時代劇と任侠は確実の混同していた時代があるにも関わらず、その移行期を描く作品はほぼありません。

なにが言いたいかと言うと、パラダイムシフトと呼ばれる価値観の変化は長い時間をかけて達成されるということです。その意味で現代はずっと変化の中にいて、後々の世から見たら移行期の真っ只中なのだと僕は思っています。なので、「社会をよりよく変える為」に僕らがすべきことは「変化する時代を見据えて、受け入れるもの、受け流すものを見極める」という姿勢になります。それは「選球眼を磨く」と言ってもいいかもしれません。飛んでくる球すべてにバットを振っていたら身体が持ちません。大局を見る選球眼的な目線で自分を取り巻く社会を見ないといけないのです。

その為には、まず「野球」というゲームのルールに従うことが必須になります。しかし、ご周知のように野球のルールはこれまで何度も変わってきました。その都度その新しい仕組みを理解することが、ゲームを有利に運ぶ鍵となります。さらにはその結果を加味して、よりよいルールを提言していくことが、ゲーム自体を発展させる鍵になります。これが「システムの要求に適応しながら、システムを批判的に見る」ということです。「システムを全否定する」という考え方は「野球のルールという前提を否定する」ということです。それは参加を拒否するということです。

日本で我々が享受しているインフラ。電気・ガス・水道・医療・道路整備…そういったすべてのサービスに対して、市場原理で対等な対価を支払った場合、税金として収める金額と享受しているサービスがつりあうのに必要な金額は、一説には「年収800万」だと言われています。もちろん僕はまったくその水準に満たないので稼いでる人や企業の税金のおかげで快適な日本での暮らしを当たり前のようにいただいているわけです。

ゲームを理解し楽しむ為に、「ゲームのルール」を熟知することは、誰もが必要であると考えます。しかし、自分が参加している「社会」という仕組みのルールを知る為の努力はあまり行われません。ちなみに僕らが当たり前だと思っている「年金制度」本格的な運用がなされてから、まだ30年くらいの歴史しかありません。まるで随分前からって、これからもあって当たり前のものなんて以外に少ないものです。73年前の日本は焼け野原でした。僕らは過去を変えることは出来ませんが、未来を作ることは出来ます。その為には「システムに適応しつつ、システムを批判的に見ること」の出来る人がひとりでも多く必要なのではないでしょうか。

「人類の将来についてどう思いますか?」という質問をうけて、思わず吹き出しながら答えました。「将来なんかわからないですよ」 ・ ダライラマ

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