私の好きな民藝の先。
【私の好きな民藝】でも大変お世話になった哲学者・鞍田崇さん・奥さま・有道杓子の奥井さんとの記念撮影。このあと皆で安土さんの工房へ向かいました。
限られた時間のなかで、私の好きな民藝高山編をたどるように、半日ご一緒させていただきました。昨日、僕は同行できなかったのですが日下部民藝館へも足をお運びいただいたとのこと、本当にご縁を繋いでくれた飛騨産業の岡田さんに感謝です。
今から、およそ100年前、柳宗悦等、民藝運動の同人等も同じように地方を訪ね歩き、時代に省みられることのなかった名もなき職人たち(草鞋を作る人々)へ民藝という言葉を贈りました。
それは、売るためのブランドを与えたわけではけっしてなく、「あなた方はそのままでいいんです。その汚れてた手が、豊かとはいえない生活が、こんなに美しいものを作り出す源になっている。だからそのままでいいんです。」と彼らのありのままを讃え、包み込むそんな旅だったのでないでしょうか。
その時に、救われたのは草鞋をつくる人々だけでなく、急速な西洋化のなかで、未来の日本を憂いもがいていた当時の若者。柳宗悦をふくむその世代の多くの知識人もまた、近代が捨ててきた日本の田舎のそのままの姿に大いに救われたことでしょう。お互いが手をとりあってものを作り、民藝という文化を育ててきたと僕は思います。けして、柳宗悦は神様ではなく、柳宗悦も民藝のものや民藝を生きる人々に救われた、ただのひとりの人間だったと僕は思います。それは自らが「煩悩具足の凡夫」であるといわれた親鸞上人が悪人正機の中で説かれた
『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』
【意味】善人だって悟りを開くことができるのだから、まして悪人が悟りをひらき、彼岸に到達できないわけがない。
という考えに基づくことだと思います。
自らが「煩悩具足の凡夫」であるという想いで向き合うからこそ光明が見えるものだと思います。
それは、柳宗悦の民藝に関する書物が難しいと言われることにも繋がると思います。読む側が「煩悩具足の凡夫」であると思い向きあわなければ、その内容の真偽や理屈にばかり眼を取られてまっすぐ向き合うことは出来ないでしょう。
たとえば【○○で痩せる!究極のダイエット】という教則本をよんで、本当に痩せれた人は、その本の内容を信じて愚直な努力をしたからです。
流し読みや、しゃにかまえて読んで、適当にこなしてた人が痩せるわけがないのと柳宗悦の話が理解できないというのことは、まったく同じ構造の話だと思います。
べつに民藝の本を理解できなくても、日々健康でいられてたらダイエット本が不要のなのと同じように、民藝なんていう言葉は不要です。そういう人はもとから民藝そのものを生きてる人でしょう。僕らはそうなりたいと常に願っています。
柳宗悦は民藝を0から作ったのではなくて、そこにいままであったものに「民藝」と名付けたのです。この順番を間違えしまうと民藝は妙な宗教のようになってしまいます。
少々誤解を招くいいかたかもしれませんが、端的に言えば柳宗悦は「○○を実践してる人が痩せてるということを発見して本にまとめた」のです。元々痩せてる人(元々民藝的な生き方)をしてる人に(あなた方は気づいてないかもしれませんが○○をしてるから美しいんですよ)と裏付けをしてくれたのです。
今回NHKの取材から今日にいたるまでの、半年間、僕は遠い昔、柳宗悦が民藝と名付けた江戸から続く当たり前の営みを過ごしていた飛騨の人々のことを想い続けていました。
いまより遥かに情報が限られていた昭和初期、山奥の田舎で学識も才能もなく、ただ辛い労働を時折のささやかな宴だけを楽しみに営んでいた自分と同世代の若者にとって、都会からきた柳宗悦等、先生方が「そのままでいい。美しい。」と喜び、価値を認めてくれた時、どれほど一体どれほど救われたでしょうか…それを考えるだけで涙が出そうです。
それは鞍田さんとの出逢いで救われた。と感じている僕ら飛騨の配り手と作り手の気持ちときっと同じものだったことでしょう。
民藝の同人との出逢いをきっかけに、その後の人生を民藝運動に尽くした多くの作り手や教師や実業家たちの姿と、現代で民藝の思想を労働の芯において営んでる自分自身がこれまでより強く
重なってみえるようになりました。
【ローカル】が民藝のように言葉として利用され始めた昨今において、柳宗悦がいかに民藝と向き合おうとしたのか。ということが大きな学びになると思います。
未来は想像することしかできませんが、現実は過去に学んで変えていくことができます。
「あなた方はそのままでいいんです。その汚れてた手が、豊かとはいえない生活が、こんなに美しいものを作り出す源になっている。だからそのままでいいんです。」
100年前に民藝運動の同人がそう伝えたように、僕は僕のまわりの美しいものを作る人、美しいと暮らしを営む友人知人達に、胸を張って「そのままでいいと言える人であるために、労働を続けます。このたよりない営みを続けていきたい。そう強く思います。
なにより「煩悩具足の凡夫」として土と関わり生きていたいとそう思います。
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