6月の記憶。

6/8

富山にて分けていただいた縄文のように見える押紋の9寸皿。十郎さんが飛騨にいた頃に作られた作です。

飛騨にいた頃ということは、20年近く前、それからずっと倉庫と店頭を出したりを繰り返していたそうで、値札は当時のままボロボロになっていました。

「誰の作だとか、珍しいとかじゃなくて好きなもの選んで使えばいいんだよ。」初老の店主はそう言って笑い「いいもの見せてあげるよ。」と招き入れてくださったご自宅という名の倉庫には、所狭しと無造作に巨匠の若かりし頃の作が置かれていました。

帰り際、倉庫にあったものは分けていただける作品もあるんですか?と尋ねたら、「まぁ、売らないってわけじゃないけど‥まぁ、また寄りなよ」と、笑って仰いました。

売る売らないの前に、まず関係性。そんなお店が以前はたくさんありました。安く買って高く売る、珍しいものを探し出して市場をつくる‥そんなことがちっぽけに感じるような出逢いがあります。

お金は優秀な交換ツール大切ですが、買っているのは物だけではなく、思い出やその瞬間あるいはそれに繋がる見えない物語でもあります。

いい時間を買わせていただきました。

「もの買ってくる、自分買ってくる」民藝ではそう言いますが、僕らの仕事もたくさんの人々のそのような瞬間に立ち会える稀有な仕事です。

やっぱり、この世界に入ってよかった。心からそう思います。

このお皿には美味しい刺身を盛りたい。

6/16

今週も平日はお休みをいただいております😌お間違えありませんようよろしくお願いいたします。

在宅しておりましたら開けられますので、気軽にインターホンでお知らせください。

写真は、接写リングの撮影テスト。

何事も勉強だなと思います🤔

ぼくは、義務教育すらまともに通わなかったので、大人になってからの方が何倍も勉強している感覚があります。

浅学でお恥ずかしい限りですが、独学で学び続けてきた事が実生活においても少しは役に立っているような気もしています。

そういえば最近、学びという行為は、自らの賭け金を増やす行為なのだと気がつきました。

100のオッズに1を賭けても100の配当しかありませんが、学ぶことは賭け金を増やします。賭け金を10にする事ができたら100のオッズに10を賭けて1,000の配当を得られます。

多くの場合、人は出来るだけ楽をして沢山の利を得ようとして、高いオッズの賭けばかりを探してしまいます。自らは1のまま1,000の利益を得られる物事ばかりを探すことはとても辛い事だと思います。自らは1のままなので、関わる物事のおおきさに左右されるからです。

しかし、失敗を繰り返して学ぶことで賭け金は100に増やす事ができます。そうすれば例え10の平凡なリターンのオッズに賭けてもリターンは1,000になります。

なんでも損せず一番最短距離で多くの利益を得ようとすると、いつまでも自らの賭け金は増えません。遠回しをして傷ついて学ぶことで誰のものでもない自らの原資を増やすことが出来たら、目の前の10くらいにしか見えない取るに足らない世界からも実に多くの学びを得る事が出来るのだと思います。

6/17

どこまで行っても自分の影からは逃げられないから、もっと近くでもっとよく見ていたい。

直観で選び

なぜ選んだかを考え

やがて考えることを捨てる

民藝においても、武道においても、宗教においても同じことが言われてます。

いいな!と思ったことに理由を探してこねくり回して痛めてしまうよりも、良くないと思う事を理解して敬遠できる人でありたいです。

手をかけないということは、手をかけることの何倍も困難なことですから。

6/20

入院中の祖父が危篤状態となりました。そのため、今後しばらくの間、急遽お休みをいただく事になる可能性がございます。しばらく予定が不安定になりますが、ご理解いただけましたら幸いです。

私事ですが、一昨年から親族や近しい人との不調やお別れが連続しています。自分もそんな年齢になったのだなと感じます。同時に、集落の関係の中でも責任ある役割を与えられる事が増え、誠に至らない自分ではありますが、誰かに必要とされていることの有り難さを感じることがとても多いです。それは!自分にしか出来ない特別なことから、誰にでも出来る平凡な事まで様々ですが、そのいずれもが示唆に富んだ学びになっています。

苦しいことも沢山ありますが、日々嬉しいことも沢山あります。いい時もあれば辛い時もありますが、その往来が生きているという実感を届けてくれる大切なものだと思います。

誰も傷つけず、誰からも好かれ、皆を救うような生き方は僕には荷が重すぎます。僕はちょっとしたことで寝れなくなってしまうようなチキン野郎です。どのように映っているかは分かりませんが、不登校で対人恐怖症だった頃から、根の部分は変わってませんし、変わらなくていいと思ってます。僕はこれからも間違いながら傷つきながら後悔しながら生きることしか出来ませんし、そんな自分のことをもうどこにも置いていきたくはないと思っています。

話が逸れましたが、しばらく変則的な営業となります!ご理解のほどよろしくお願いいたします。

6/21

「臨時休業のお知らせ」

昨晩、祖父が亡くなりました為、本日の営業はおやすみとさせていただきます。

急なお知らせとなり申し訳ございません。

よろしくお願いいたします。

6/23

おかげさまで、無事祖父を送り出すことが出来ました。

気にかけていただいた皆様、誠にありがとうございます。

分かっていた事とはいえ、ぽかんと出来た心の隙間を埋めようと、独り本を読み返したりしていましたがうわの空で、不意にイヤホンから流れてきた 不可思議/wonderboy の「銀河鉄道の夜」を、何度も何度も繰り返し聴いています。

こんな風に離ればなれになってしまうことは
寂しいけど決して悪いことばかりではなくて
お互いを成長させたりもするから
いまはありがとうとかまた会おうとかありふれたことが言いたい。
こんな風に離ればなれになってしまう事で
君の大切さが身に染みてわかるきっかけになってる
たくさんの言いたいことがあるはずだったけど
いまはありがとうとかまた会おうとかありふれたことが言いたい。
不可思議/wonderboy 「銀河鉄道の夜」

地球から遠く離れた恋人たちの想いを歌った生別の歌ですが、永遠に会えない遠くに行ってしまった祖父を思って聴くと、死別の歌のように聴こえます。そして「離ればなれ」というフレーズが妙にしっくり心に響きました。

ここにいないという事は、何処にもいないという事ではなく、何処にでもいるという事です。誰かを側に感じられない時それが実存の距離の問題でなく、心の距離の問題であるのと同じように、見えなくなった事で、より鮮明に心の中の祖父を近くに感じられるような気がしています。

離ればなれになった事で、大切さが身に染みて分かった気がします。僕はダメな奴だから、こんな大切な気持ちも日常の喧騒の中で簡単に落っことしてまた迷ってしまうんだろうけど、人は大切ものを見失っても、けっして失う事はないということを、最近の僕は気がついているから、昔みたいに、くよくよしたり引き摺ったりはしないよ。でも、別に悲しくないわけじゃないから、たまには夢の中で昔話を聞かせてね。

そうそう会いに行くといつも出してくれた、かっぱえびせん。何時間話しててもずーっとなくならないように足してくれてたよね。てっきりじいちゃんの好物だと思ってたけど、違ったんだね。僕が子供の頃に喜んで食べてたから好きだと思ってずっと用意してくれてたんだね。なんでそんなことに気が付けなかったんだろうね。いま思い出して泣けてきたよ。

今月の頭まで独り暮らししてたのに、家の中ものすごく片付いてて驚いたよ。葬儀の段取りも必要や書類も戒名も全部用意してノートに細かに書き込んであったね。こんなこと誰にでも出来ることじゃないよ。最後まで家族のこと心配してくれてたんだね。本当にありがとう。

‥こんなこと人様の見るような場所に書き込むもんじゃないって嫌な顔するかもしれないけれど、自分自身への戒めを込めてこうして書き残しすことを許してください。

じいちゃん。ありがとう。ありがとう。ありがとう。

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