谷屋で過ごす飛騨の日常。(1日目)

先日、重要文化財日下部家住宅に隣接するお宿『谷屋』に、家族で宿泊させていただいた。

・谷屋から母屋へと向かう路地。 


 僕は、飛騨高山で工藝店『やわい屋』を営む傍ら、昨年からは飛騨民藝協会の理事として、日下部家にまつわるあれこれのお手伝いをさせていただいています。

昨年開業した谷屋に関しても、開業前から多くの時間を共にし、谷屋での滞在の際、少しでもお客様に寛いでいただけるようにあれこれ苦心してきました。

 今回、場所の魅力を知る為には等身大で体験することが一番良いだろうということで、モニターを兼ねて家族で一泊させていただきました。

手前味噌ですが、滞在で感じたことを忖度ない感想として書き残したいと思う。

・手前から谷屋、日下部家住宅、吉島家住宅が並ぶ江戸の昔から変わらない風景。


 日下部家は、飛騨の地で代々『旦那衆』と呼ばれてきた名家の一角で、飛騨の豊かな町民文化と経済を牽引してきた素封家だ。国の重要文化財に指定されている日下部住宅は、元々は日下部家の本宅として利用されていた建物で、明治8年の大火で全焼し江戸時代に培われた高い大工技術を大胆かつ贅沢に用いて明治8年に再建された日本を代表する民家建築であり、隣接する吉島家住宅と合わせて、民家として日本で最初に文化財指定を受けた名建築だ。

・日下部家の囲炉裏にかけられた味わい深い自在鉤。


 日下部家を手がけた大工『川尻治助』は、松田又兵衛似勝から連なる松田一門に名を連ねた江戸期の飛騨を代表する名工の一人で、祭り屋台の手長・足長の彫刻で有名な『谷口与鹿』の同門にあたる。お隣の吉島家を手がけた大工は『西田伊三郎』と言い、飛騨権守・藤原宗安から連なる水間一門に名を連ねた名工であり、松田一門と水間一門は飛騨の地で長きに渡り互いに技術を競い合うライバル同士だった。

 そんな両者が、磨きあげた技術を如何なく発揮したのが、日下部と吉島隣り合う両家の家屋だった。飛騨は明治に入るまで江戸幕府直轄の統治が厳しく敷かれ『天領』と呼ばれていた。今も残る『高山陣屋』は、天領期の飛騨の役所だったのだが、この陣屋より背が高い建物や、豪華な装飾や材を使用することは、御上に対する非礼であるという理由で厳しく制限されていた。

 時が降り時代は明治時代。梅村騒動をはじめとする明治初頭の混乱が収まった頃、両家は大火に巻き込まれ焼失してしまう。当時の家屋は現在の建物の正面に建てられていたそうだが、幕府・天領統治の多くの制約から解き放たれた明治に生きた江戸の名工たちは、培ってきた技術を両家の建築に注ぎ込んだ。

ここに、飛騨の匠と呼ばれる名工たちの技術・美意識の粋を結集した豪胆で力強い『男』の日下部家と、優美で華奢な線、飛騨弁でいうところの『こうと』な線の魅力を持った『女』の吉島家と評される二つの名建築が誕生した。

 両家の見所は、あげだしたらキリがないが、一番はやはり雄大な梁組みだろう。訪れた際は炉端に腰掛けてゆっくりと建物上部を見上げてみて欲しい。

 この家が建って百数十年の間に飛騨の街並みも、世間も大きく変わったが、明かり取りの窓から差し込む光が照らし出す静かな気配は、江戸の昔から何一つ変わっていない。

・多くの人々を魅了してきた日下部家の勇壮な梁組み。


 そんな日下部家住宅と敷地を同じくする一棟貸しのヴィラ『谷屋』は、日下部家住宅と江名子川の間に面した場所に立地した明るく風通しの良い小ぶりな建物だ。本宅と同様に古くからこの街並みに在って、飛騨の景色の一部となってきた小さいながらも飛騨の美意識と伝統のつまった家屋だ。

 小さいとは言ったが、一階に、茶室を含む和室3部屋、吹き抜けのある土間、中庭に向けて開けた半露天風呂、トイレ・洗面台。2階には、洋室2部屋、トイレの述べ面積39坪と、ビジネス時の長期ステイや、家族での宿泊にも充分対応可能な広さを有している。ベットは2つだが、布団を敷くことで4名までの宿泊に対応している。また、観光地高山の中心地まで徒歩圏内ありながら、街中の喧騒とは離れた立地であることも嬉しい。

・注ぎ込む光が美しい土間。真冬の滞在だったが床暖房のおかげで寒さは感じなかった。


 滞在の間一番身近に触れるであろう椅子や家具類は、すべて飛騨に縁深い木工作家の作品だ。ついつい座り比べをしてお気に入りを探してしまう。気になった作品に関しては、作家を紹介してもらうことも可能だ。

・キッチンと対面になっている和室。障子の向こうは中庭が広がる。

・通りに面した2階の一室、秋祭りの際は目の前を通る祭り屋台を見ることが出来る。


 伝統的な古民家を大胆にリノベーションした屋内は、冬でも暖かく、部屋毎に個性豊かな表情があり、どの部屋でくつろぐか迷ってしまう。部屋数が多いので、ワーケーションでの利用でも安心して仕事に打ち込めるスペースがとれるのも嬉しい。通信速度も問題なかった。

・飛騨で製作されてた総檜のお風呂。ガラス戸を開けることで露天になる。


 谷屋は、一見豪華な派手さはないが、親しみを感じる温もりがある。『神は細部に宿る:God is in the details』とは、ドイツの建築家ミース・ファンデル・ローエの言葉だが、飛騨に訪れた皆様を日下部家の客人としてお出迎えをしたいという当主の心配りは、誠実であり、形ばかりの豪華さや、その場凌ぎの言葉ではなく、いつでも真剣そのもので、限られた山国飛騨での滞在時間を少しでも楽しんでいただきたいという、おもてなしの精神が随所から伝わる

・飛騨の建築の美の象徴として讃えられてきた繊細な格子窓。


 日下部家住宅の奥には、『日下部民藝館』がある。民藝運動の創設者・柳宗悦の思想に感銘を受けた11代目当主・日下部礼一が、昭和41年に開館した。

民藝とは『民衆的工藝』の略称で、民藝運動の同人によって名付けられた造語だ。民藝について語るのはここでは長くなるので割愛するが、生活に寄り添い、人々を支える日常の道具の中に、美しく育ったものがあることから、柳は日常というありふれたものの内に深い『健康の美』を見出し、今でも省みられることの少ない『日常』が秘める底知れぬ力に着目した。

・吹き抜け上部から土間を見下ろす。

 飛騨には飛騨の日常があり、当人たちにとってそれは当たり前のものだ。しかし、その当たり前の裏には、驚くべき長い時間と、それを脈々と受け継いできた人々の営みの悲喜が織り込まれている。谷屋で感じる凛とした空気と不思議な心地よさは、きっと、そのような歴史に裏付けられた風土に由来しているのだろう。

とってつけた観光地のもてなしでなく、この地を愛し、この地を育て、そしてこの地に育てられてきた旦那集・日下部家の心からのおもてなし。誰でもない私に対してだけ向けられた心配りが嬉しかった。『客人を精一杯もてなす。』それだけを聞いたら、至極当たり前のように聞こえるが、効率一辺倒の現代において、土地土地の伝統に根ざしたここにしかないもてなしを行うことは、なににも変えがたい特別な体験であった。

・日下部家住宅の灯とりの窓から差し込む光。

 

 日が暮れた頃、本宅の囲炉裏に招かれ、ご当主の日下部勝さんと談笑を交わした。街の人として生きてこられた日下部家当主の口を通して語られる飛騨の四方山話は、ガイドブックなどで知る情報とは厚みがまるで違っていた。いつの時代も、当事者が切実に語る言葉に勝るものはない。僕らは、つい『歴史』などど言って物語を簡単にまとめてしまうが、そこには数えられないほどたくさんの人々の営みの積み重なりがあったことを改めて感じた。

・『一位一刀彫り』の創設者『松田亮長』作の『籠の渡し』の根付け。

 この日は、日下部さんの奥様で学芸員でもある日下部暢子さんのご案内で、ナイトミュージアムを楽しませていただいた。ただ見るだけでなく一つ一つの物や建築に秘められた物語を伺えたことで、記憶に残る重厚な時を過ごすことができた。オーディオガイドなどで手軽に情報を得ることは出来ても、生の話や生じた疑問を問うことは出来ない。谷屋での滞在は、時間と空間を超えた出逢いと発見に溢れている。

 その後、外で食事を済ませて谷屋に戻り、中庭に面するガラス戸を開けて、家族で露天風呂を楽しんだ。いつもとは違う檜のお風呂に、息子は「いい匂いがする!」とご満悦だ。中庭と母屋の間から月が覗いて中庭を音もなく照らした。見慣れた街の見慣れた空が、こうも違って見えるものかと感じ入った。

・2階の角部屋のベットルーム。寝心地の良い布団に包まれてなかなか起きれなかった。


 通常、建物の浪漫と快適性は、なかなか天秤が釣り合わない。特に古民家のリノベーションの場合はそれが顕著だ。しかし、谷屋は、この点をうまく両立している。雑な新しさも、誇示するような古さもなく、過ごしやすさに対しての気配りがされている。古い家屋なので天井が低いところや、階段の傾斜がきついという問題はあるが、気をつければどうということはなかった。

 髪を乾かしてフカフカの布団に潜り込む。「記念日には、またここに泊まりに来たいね。」妻ぽつりと呟く「そうだね。」そう答えて、はしゃぎ疲れて眠っている息子の頭をなぜた。たまには予定のない旅行もいいもんだな。そう思いながら、静かに眠りに落ちた。


・二日目に続く。


谷屋の詳細、ご予約は以下リンクから。

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