地方の誇りと、都会の誇りの話。

 SNSを見ていると、都市からやってくるコンサルや、アドバイザーが地方をダメにしたと言う地方側の声や、せっかく一生懸命かかわって良くしようと尽力したのに地方側の理解が得られず成果が出せなかったという都市部側の話をよく目にします。

色々な事例がありますし、一概にどちらが悪いとかそういうことではないのですが、どれだけ活動に意義や倫理的に考えて正義だったとしても、多くの人は、それだけでは他者からの意見を受け入れることは出来ません。私たちは普段から相対的な意味での善悪で物事を判断出来てはいません。主観的な善悪の判断をしている事に気がつきにくいのは、所属している集団の中で、同一の倫理観を共有しているので、自分自身が感じているルールが他者にも広く適応されると勘違いしているだけです。
アメリカと中国と韓国と日本では『正しさのものさし』が全く異なるように、私とあなたのものさしは当然違いますが、集団の中にいること、そして、集団というものの影響を自分が受けている事に自覚的でないと、自分のルールを無意識に他者に強要する事になってしまいます。スペインの哲学者オルテガは、「私とは、私と私の環境である」と言いましたが、私であることとは環境の影響を相互に与え合うものです。そして、その事に対して自覚的でないと、コミュニケーションのズレが生まれてしまうのです。


 都市から来た人に対する反感や、逆に都市部からしたら合理的で革新的な思索が地方で受け入れられないという葛藤の裏には、壮大なロジックや陰謀が隠れているわけではなくて、単純にお互いが異なるコミュニケーションツールで一方的に話を進めた結果、『蔑ろにされた』『軽視された』『バカにされた』という感覚が相手側に産まれるからです。人は誇りを傷つけられた際に強い嫌悪感を感じます。そして、地方と都市部では『誇り』のあり方が正反対といってもいいほど異なる為、うまく折り合いがつかないのです。

地方でも都市部でも誇りというものは、自分と周囲の「関係性」を元に構築されます。どちらもある一定の階層に参加することで、他では得られることのできない利潤を得ることが出来るということが、やがて『誇り』と認識されるという点では同じですが、内情は大きく異なります。『横軸の繋がり』を重視する都市部のコミュニティーに比べ、地方では『縦軸の関係性』を重視します。縦軸というの端的に言うと、『時間の価値』ということです。『歴史』『伝統』『家柄』といった過去から引き継いだ存在、つまり『死者』の側に、誇りの根拠を持っているのが地方です。対して、スクラップアンドビルドで成長してきた都市部においては、前時代的な『死者の声』に重きを置くということは難しくなります。その為、今を生きている『生者』との関係性に重きを置きます。地方は関係性の起点を集団の側に置くから『合意形成』の過程に重きを置き、都市では起点を自分の側に置くので 『意見を提案する』事に重きを置くという事です。

特に「新しいコミュニティー」においては、非常に『死者や過去の存在』が薄くなります。なぜならそのような集団を維持させている『誇り』の根拠は、『横のつながり』すなわち自身が積み上げてきたキャリアや努力や人脈であって、自力で自己実現を自由に行えることが誇りとつながっているので、出生で差をつける事は、自己の力の及ばない「不条理な差」になってしまうので、避ける傾向があるからです。

都市部でも地方でも同じですが、特権階級は、すでに独自の強固なコミュニティーを有しています。特別な人々の集まりのドロドロした感じをドラマや小説で見聞きしている人は多いと思いますが、そういった特権階級と、庶民の階層が交わる機会は、実は都会より地方の方が多く、地方というのは、特権階級と新しいことを志す若者が同じコミュニティーの中で混ざることで、さまざな変化を生み出しています。都市部においての多様性と比べて地方の多様性が、まとまりのないごちゃごちゃとしたものになっているのには、地方ならではの人口が少ないという事情や、情報伝達の遅さも合間って現代まで残ることのできた多様性の形と言えます。そして、困った事に同じ多様性を語る際にも、都市と田舎では主語が大きく違ってしまうのです。

都市部の誇りとは、自分がどのように現在の地位を築いてきたかという点が重視されます。いわゆる「あれ俺がやったんだよね」ということが大切なコミュニケーションツールになります。たいして、地方では特権階級と庶民が渾然となったコミュニティーを形成している為、「あれ俺がやったんだよね」とは真逆の、「おかげさまでなんとかやれてます・・」という姿勢が求められます。都市部では「自分で頑張った」という「自力」の「成功体験」を語る力が求められ、地方では「困ったら助けてもらえる人」という「他力」の、いわゆる「人徳」の深さが重視されるのです。


 その誇りの違いから、馬鹿にするつもりはないのに相手を傷つけてしまう事態が発生してしまういます。都市部の人は「あれ俺」を語ることで、自分を魅せ、地方で「おかげさまで」と謙遜して、自分では語らず周囲の人が「あいつは偉い奴だ」と評価されている無言の賛辞を通して自分を魅せます。その為、都市部の人からすれば、主体的な言葉や姿勢を持たない地方人と感じられ、地方の人間からすると、自分や周囲のことを蔑ろにして自分語りをしている失礼な人と映ってしまうのです。

その違いを是正するのはかなり難しい問題です。なぜならどちらも自分は『普通』だと考えて相手に接しているからです。『郷に入っては郷に従え』と言いますが、常に相手の立場に立って想像して接することこそ、コミュニケーションにおいて求められる最低限のマナーなのだと思います。大切なのは、違いを理解して共栄共存していく方法を考えることでしょう。『木を見て森を見ず』という諺がありますが、木を見る都会的・現代的な見方も、森を見る地方的・歴史的な見方、マクロとミクロの双方の見方が求められるのがこれからの社会ではないでしょうか。自分という存在を考える時に、周囲に頼らず没我に逃げず、関係性という見えない関わり合いの中で、どのように振る舞うかを考える、「永遠の微調整」こそが、真摯な人間のあり方ではないでしょうか。

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