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十八冊目【道具が語る生活史】

【道具が語る生活史】著者 小泉 和子出版社 朝日選書鎌倉時代に禅宗と共に宋の料理が入ってきて、野菜、乾物、味噌、豆腐、納豆、麺類等が導入され、一方すりばちを使って調理するかまぼこやあえものも始まった。つい近代初期になると南蛮料理の揚げ物が入るなど、次第に冷たい料理からあ温かい料理へ変わっていった。加えて茶の湯の盛行による会席料理の発達が食器やもりつけを発展させるなど、料理の重点も味付けと盛り付けに変わっていく。急須や土瓶、擂鉢、畳や提灯からちゃぶ台に至るまで、日常で使えわえる様々な道具から庶民の生活を読み解く良著。食器に関わる仕事をしていてもその道具がいつから使われていたのか、いつから現代のような使われ方をしてきたのか、そういったことは日頃あまり意識しない。たとえば、僕ら器屋は少し前まで茶碗や湯呑み等は五客揃えで販売するのが常識だった。各自が食卓でばらばらの器を楽しむのが常識のようになったのは最近のことだ。各人の営みというのは、意識しなくても時代の影響を大きく受けている。それはファッションに似ていると思う。冒頭に引用したように、日本人の食生活もおおいに変わってきた。一般家庭の食卓で大陸から入ってきたものを抜いたら、かなり質素なものになる。そもそも日本食は質素だった。昔から米を食べていたことに変わりはないが、現代のように炊いた白米をおかずを、どんなに田舎に暮らす人でも普段から食べられるようになったのは、戦後になってからで、それまでは稗や粟を混ぜたものや、大根やその葉を入れて炊いた雑炊のようなものを、囲炉裏にかけた鍋で煮て、杓子で取り分けて食べていた。そして、時代劇や昔話では白木の木の椀を使っていることが多いけれど、実際は庶民もおおくは漆を塗った漆器を使っていたようだ。おおくの田舎では江戸時代とさして変わらない営みが昭和まで続いていた。このことも僕らからしたら信じられないことだ。僕らの「日常」はたかだか60年くらいの歴史しかない。その「あたりまえ」にしがみつくことは、あまり懸命な選択とは思えない。そういった考えから、郷土史から昔の暮らしぶりや古い道具のことを調べたりというのは日常的にしているのだけれども、この本で初めて知ったことも多かった。一番驚いたのは「提灯」のことで、なんとなく江戸時代から夜を照らす照明として日常的に多様されていたと思っていたのだけど、和蝋燭というのは芯を定期的に切らないといけなく、しかも製造に手間がかかるので当時から高価であった為、提灯が歴史ドラマで使われるようになったのは、洋蝋燭が輸入されて、安価で量産されるようになった明治以降だった。ちなみに、花見やお祭りの際に提灯を吊るすようになったのは、明治十二年にグラント将軍来朝の歓迎式典の際に、提灯を家々の軒先に吊るしたのが始まりとされている。その光景がとても綺麗だったので、全国的に流行したそうだ。「昔からそうだった」とよく耳にするけれど、その「昔」が百年前なのか、三百年前なのか、五十年前なのかについては熟考が必要だと思った。もうひとつ、以前から疑問に思っていたことに答えが見つかった。それは山国における林業のことで、木材というのは石油が一般化する前は、生活の為に必須の材質で、かつエネルギー源だったので重宝されていたのは理解しているつもりだった。薪・木炭・木椀・建材・土木工事の建材。等々に使われる木材は万能の素材だった。それにまつわる職業や集団も多く存在した。疑問だったのは、おおきな川が流れていない山奥では、材木を運び出す手間を考えると、現地で、椀の下地を削ったり、薪や木炭を作る他に、どのようなものを作っていたか?ということで、いつも考えていたけど分からなかったのだけど、答えは「樽・桶」の材料だった。確かに輪でとめる樽・桶の材料はばらせば運搬も容易だろう。室町時代に「陶製の壷」という重く割れやすいものから「木製の樽・桶」という軽くて丈夫な容器が変化したことで、様々なものを遠方に運ぶことが可能になった。室町時代は交通貿易の高度経済成長期だったのかもしれない。「あたりまえ」に思ってることでも、実は近代になってから始まった習慣も多い、洗濯機は大正時代の末には使われ初めていたが、当時は女中を安価に雇えた時代だったので、一般に普及しなかった。女中が当たり前に生活の中にいた時代の生活を僕らは知らない。それはほんの百年前のことなのに。

十七冊目【フラジャイル・コンセプト】

【フラジャイル・コンセプト】著者 青木 淳出版社 NTT出版行きかう空気が整うように、その場になにかを手を加える。しかし、その空気が持っている論理には、とことん身を委ねる。そうすることで、その場は、その場であるまま、別の世界に変容する。ニュートラリティが行き着くところまでいけば、その場かに自ら隙間があいて、自由な動きが生まれます。そのほころびから、今まで見えていなかった世界が顔を覗かせます。友達に「読みました?」と聞かれたから、さっそく取り寄せて読んでみた。面白かったし、なにより彼と話してた時に出てくる言葉や思考の原石みたいなものがたくさん詰まっていてとても面白かった。そういう読書もあるのだ。ということが発見だった。もちろん普段から、尊敬する友人・先輩・著名人が、お勧めしている本には目を通すし、そこから彼らのルーツを知ることはある。だけど、身近で気の合う友人の私生活を覗くような読書は、また違った趣があった。直接話をしている人の奥行きが深まるような、いい読書だった。そうだ、読書にも色々ある。内容ではなくその本との向き合い方の違いで、色々な見え方があって、漫画から哲学や思想を得る人もいるし、難解な哲学書や専門書を漫画みたいにさらっと読む人もいる。書いてある情報は同じなのに見る人の態度によって、受け取りかたはおおきく変わる。別に不思議でないのだろうけど、今はなぜかすごく不思議な気持ちになっている。これもある意味で「ほころび」なのかもしれない。著者の青木さんのことを僕は知らなくて、本書を読んで「ルイ・ヴィトン名古屋」の設計をした人だと知った。あの建物は、僕が名古屋に住んでいる時期に建築されて、印象深かったのでよく覚えていた。まったく知らなかった建築家が建物のイメージとして繋がる。こういうところも建築家の面白いところだなと思った。古民家に住んでいるので、そういう建築が好きだと思われている節があるけれど、僕はどちらかといえば、ル・コルビュジエをはじめとするモダニズム建築や工業デザインが好きで、やわい屋も古びたコンクリートのビルをリノベーションして…と考えていた時期もあった。なぜモダニズム建築に惹かれたというと、時代に合わせた「当たり前」をのぞむなら、表面的な装飾や形式への懐古に拠るよりは、その時代において使われる素材、思想を踏襲したものが一番望ましい。という想いがあったからで、少なくとも10年前の身の回りを思い出してみると、そういった建築のほうが圧倒的に「生活感」を与えてくれていた。その頃のぼくには「田舎暮らし」や「自給自足」というものは、複数の生き方を組み合わせて実現するもの。という認識があった。それは、なにかにこだわりすぎて排他的になることへの拒絶のあわられだった。新興宗教を信仰している両親の元で育って、義務教育をほぼ不登校で過ごしたぼくは、世間一般の「あたりまえ」にも、世間とずれた特定の集団特有の「あたりまえ」にも、違和感を感じながら成長した。正しかろうが多数派だろうが、そのことに対して、無批判・無自覚な「常識」であれば、それはすべて「静かな狂気」に思えた。オーム真理教の事件の頃、思春期だったことも影響があったと思う。ともかくそういった経緯から、時代がどのようなことを選ぶかが興味の対象だった。そういった情報を収集するのが好きだった。そして、その裏づけとして、それらをそうさせる行動の「構造」「倫理」に興味を持ったことが、民俗学、宗教学、哲学、文化人類学の分野への興味のきっかけにもなった。どれだけ技術が発展しても人間は弱いただの人間なんだ。「なんだ、別にそれでいいんだ。もっと完璧になれると思ってたけど、このままでいいんだ。」そう思えるようになった頃、ぼくはもうひきこもりではなくて、駅前でギターをひいて歌を歌う人になっていた。「ルイ・ヴィトン名古屋」を見かけたのはその頃だ。別にヴィトン好きでもないけど、記憶に残るくらいその建物は異彩を放っていた。だけど、いまでも覚えているのだけど、周りの人が「奇抜」だといったその外観を、ぼくは奇抜だとは思わなかった。ぼくは、その建物にぼくのイメージする「名古屋」そのものを感じたからだ。「土地の持ってるイメージ」を新しい技術で表現しているように思えた。だから、それを名古屋の人が、奇抜だというのはよくわからなかった。それは周囲から浮いていたけど、冷たい断絶ではなくて、蜃気楼の向こうの異世界といった様子だった。手を伸ばせば届きそうな幻。そして、その建物は街に馴染んでいた。十数年を経てこの本を読んで、冒頭に引用した一文を読んで、あの時の感覚に納得がいった。「あぁこういう考えの人が作ったからだったんだ」と、「ルイ・ヴィトン名古屋」も、まさに、場のルールにとことん身を委ねて、そのニュートラリティ=中立性が行き着くところまでいって、底が抜けたというか、空間に亀裂が入って、蜃気楼の向こう側と繋がった。と、いうような建築だった。別にあの建築が好きというわけではない、けれど、あの時感じた違和感と感覚を十年経っても覚えていた。そういう経験はけっこうある。いつか、あの時の引っかかりに納得するときが来ると思うと胸が躍る。そして、その瞬間、さっきまでとなんら変わらない景色や時間に、今まで見えていなかった世界を見ることになる。ぼくはそれがあることを知っている。だから、楽しみでしかたがない。

十六冊目【飛騨 よみがえる山国の歴史】

【飛騨 よみがえる山国の歴史】著者 森浩一・八賀晋(編)出版社 大巧社粟田道麻呂は天平神護元年(765)に和気王の謀反に連座して、飛騨にながされ一院に幽閉されたと「続日本記」に出てきます。この粟田というのはたいへん外国語に堪能な氏です。~道麻呂も新羅史が博多津に来着したときに、おそらく通訳として派遣されています。その為、飛騨に流されたというのは、新羅との関係があったのではないかと考えられます。ぼくらの暮らす地域は一体どのような歴史のうえに成り立っているのか、足元には知らないことがたくさんあります。そのすべてを知ることはもちろん無理なのですが、その一端を学ぶことは出来ます。そして「解る」ということはそれによって自分が変わることをさします。「知る」だけでは人は変わりません。「解った時」解る前の自分と、解った後の自分は、違う自分になっています。そして、観える世界も変わります。それが「解る」ということだと思います。自分の暮らす土地にどのような人が暮らし、どのような文化を育んできたのかということは、「あたりまえ」の日常のまったく違う姿を教えてくれるのです。ご存知の方も多いかと思いますが、飛騨はかなり古い時代の書物にもその名前が出てきます。年号がはっきりしているものをいくつかあげると…教科書にも出てくる「壬申の乱」(672)この際、天武天皇に敗れた大友皇子は処刑され、見方した豪族等が死罪や流刑になりました。その中に新羅の僧「行心」(別の書物に、異なる時代に「幸甚」という新羅の僧の記述もあり、同一人物ではないかと言われています。)を飛騨の伽藍に流刑にした。と「日本書紀」に書かれています。「伽藍」というのは、僧侶が集まり修行する清浄な場所の意味なので、西暦600年後半には、この山深い飛騨の地に、天皇の側近の新羅の僧を「殺すのには惜しい僧だから流罪」となった行心が、身を寄せる仏教施設が多数存在していたということになります。冒頭の引用の粟田道麻呂も100年後に同じく流罪となっています。今から1300年以上前に飛騨には新羅(朝鮮最初の統一王朝 (?~935)しらぎ・しんらとも呼ぶ)との関わりがあったのは間違いないのです。ちなみに「飛騨」という漢字は行心の息子で僧であった隆観が、大宝二年(702)に、神馬を献上して、流罪の刑を解かれ都へ戻っているのですが、その神馬が龍馬、つまりペガサスであり、「飛ぶ馬」から「飛騨」になったとの説があります。もちろん本当に飛んだ訳でなく、飛ぶように早い馬だったということだと思います。ちなみに「飛騨」の「騨」なんですが、正式には旧漢字の「飛驒」が正解です。この「驒」という字は漢音では「タ・タン」と読むのですが、呉音(中国南方系の字音に基づくといわれる音。「男女」を「なんにょ」と読む類)では「ダ・ダン」と読むので「ひだ」と読みます。飛騨地方では他にも新羅との関係を伺わせる瓦等が出土しています。太古の時代、日本海側から大陸の人々が山国にまで入ってきて生活していたのは間違いないようです。岐阜県加茂郡の富加には、日本最古の戸籍が残っていますが、そこに「秦」の名前がたくさんでてきます。秦性については様々な説がありますが、大陸から日本に渡来した民族で、大和朝廷時代に日本の政治・文化におおきな影響を与えた一族です。歴史教科書ではほとんど書かれませんが…さて、その富加の近く不破宮へ、天平一二年(740)に聖武天皇がやってきた時に、飛騨の楽と新羅の楽を奉納した。ということが「続日本記」に書かれてます。やはり、飛騨と新羅には深い関わりがあったのでしょう。ちなみにお隣、長野県の高井郡と呼ばれる地域には高句麗の人々が暮らしていたことが解っています。そして、今の善光寺周辺には百済の流れの人々が暮らしていたようです。ワサビが有名な安曇野では、各集落で船の形の山車を曳航する祭りがあります。海のない長野でなぜ船を挽くお祭りがあるかといえば、安曇族は海人と呼ばれた海遊民族の末裔だからです。安曇野の中心に穂高神社があります。「ほたか」は古事記によると「ワタツミ(綿津見神・綿積神)の子で阿曇(あづみ)氏の祖とあります」ワタツミとは「海」のことです。なので安曇野の人たちが「あづみ」の祖である穂高神社をお参りするのは当然のことです。だけど、現代を生きるぼくらには、そのような過去のことはお構いなしに暮らしています。そして、知らず知らずのうちに千年以上昔から脈々と受け継がれてきたものを「無意味」であるとして、忘れてしまいます。それらは本当に無意味だったんでしょうか?確かに現代社会からしたら非効率であるかもしれません。しかし、千年以上の長い間、形を変え継承されてきたものは、もはやそこに暮らす人々の身体の中心に存在する心のようなものになっているではないでしょうか。日本人が一番最初に鉱物資源を利用したのは、飛騨で採れる「黒鉛」であったのではないかといわれています。縄文の古い時代の土器に練りこまれた黒鉛は、破片で文字が書けるほど多く含まれているそうです。ぼくらが学校で習った歴史には含まれない歴史が、身近なところで今も息を潜めています。それは、祭りや神社や古墳や風習や方言となって、もはや分けることができないくらい深いところで、ぼくらの生活の深いところに存在しています。そんなこと知らなくたって生きていくのには困らない次代ですが、僕はそういうことを必要としない生き方は、なんだかとても危ういように思えてなりません。

十五冊目【現代人の祈り ~呪いと祝い~】

【現代人の祈り ~呪いと祝い~】著者 釈徹宗:内田樹:名越康文出版社 サンガ「中央フリーウェイ」のように、見えてくる景色を描写するというのは、「予祝」の法則にのっとっています。「予め、ひと通り先取りしてしまう」というのが「予祝」の手法です。農耕のお祭りなどは、田植えから刈り入れまで、すべての行為をひと通りやってしまいます。それが予め祝うことになる。また、「予め嫌な目にあわせる」という祝いの形もあります。たとえば獅子が頭を噛むことや、ナマハゲがそうです。そして、それらが予祝となるためには、絶対にひとつの条件が必要です。それは、「子供が怖くて泣いている時に、隣で親父がゲラゲラ笑っている」ということです。釈徹宗、内田樹、名越康文という名だたる面々が揃って面白くないわけがないのですが、予想通りいい意味で脱線という、話がどこまでも膨らんでいって自然と収縮していき、はっとする言葉がポンと産まれてくる…そんな対話が数本収められています。「予め、ひと通り先取りしてしまう」という「予祝」は「予言」と同じようなもので、「預言」とは異なるようにおもいます。「預言」は「言葉を預ける」と書きます。未来になんらかの意思や想いを預ける言葉が「預言」。対して「予言」は「予め言葉を伝える」似ているけど少し異なります。ぼくは「予言」は「予定」と同じように「変わってもいい暫定の未来」であるように感じてます。「預言」の預けるということには確実性が付いてまわります。「預けたもの」は、かならず元の形があって、それが預けている間に変化することはあまり好まれません。(成長するものなど一部例外はありますが…)しかし、予定は「予定は未定である。」という言い方があるように「予言」も、もっと曖昧で力の抜けたものでいいように感じます。「そうなったらいいなって思うんだよなぁー。」という風に未来を想像することは、大切なことです。「こうなる!こうならなければいけない!」というのは、どうも僕の性にあいません。未来の為に、よりリアルな「予言」を残すためには、現在と過去について深い思考を巡らせなけばなりません。「過去のどんなものにも影響を受けていないもの」はありえませんし、過去を(史実の結果のみならず、思考のプロセスや、それが成り立った周辺の環境について)学ぶことは、未来を想像するためのエネルギーとなるものなのです。まさに、温故知新「古きをたずね新しきを知る」ですね。そこで、冒頭の引用に戻って、「予祝」の話です。ぼくらはパラダイムシフトと呼ばれるおおきな時代の変換期に今まさに生きています。そして、様々なひとが理想の未来や理想の生き方・働き方について言葉を述べています。それらの未来を受け取る側が、ただ受け取るだけでは「預言」を信じて待ち続ける人々のように、預かった未来だけを大切にするあまり、目の前の現実を見ることが疎かになってしまいます。それよりは、予め様々な未来の形を実践してみて、身体に合わないものはきっぱりと諦める。トライ&エラーを繰り返すほうが健全な気がします。ひとつのことを信じることはすばらしいことですが、先日も書いたように「無批判」に受け入れることは、危険が伴いものです。システムの中にいながらそのシステムを達観的に見て、必要であれば批判することも大切なことです。その意味で「社会」の最小限のモデルは「家族」です。伴侶は同期、親は上司、子供は部下に置き換えて考えると、いずれの意見も無批判に受け入れたら「家庭=会社」がむちゃくちゃになるのは時間の問題です。大切なのは会社でしたら会社全体の利益や組織のバランスですし、家族や個人の場合も同じような原理が働いています。それでは、どのようにして未来を予言し、その予言を現実のものにしていくのか。といえば、ヒントは「中央フリーウェイ」にあります。「見えてくる景色をそのまま描写する」この単純なことが「予祝」になります。つまり、理想とする暮らしを予め行って、その営みをただ見たまま感じたままに言葉に変えて伝えていけばいいのです。別に難しい表現や横文字を与えなくても、山は山のままで美しいし、営みは営みのままですばらしいのです。そして、理想の営みとは「変化しない普遍的なもの」ではなく、「微細な変化を日々繰り返して、常に最適な姿に調整されている状態」を指します。「生活」というものが、他者・自然・社会という自分以外のものと関係を持って存在している以上、「変わらない」というのは軋轢を生む原因となります。むしろ周囲の環境や自分自身の変化に順応する営みが、もっとも強かで末永く続く営みだと思います。わかりやすくたとえるなら「ラーメンのスープ」です。スープの味を左右する水も野菜も油も、あわゆるものは毎日同じ性質で供給されることはまずあり得ません。亭主は「変わらない味」を守る為に、日々変わる材料で「いつもと同じ味」を作り出します。その為には、微細な変化を感じとり最適な状態に調整(チューニング)する技術が求められます。それをして人はその味を「変わらない味」と賞します。営みも同じように「昔から変わらない営み」といいながらも、今も続いているものは、強かに周囲の変化に対応していくそんな営みだったのではないでしょうか。これからの未来を生きる僕らは、老舗の味のようなに、日々周囲の要素と折り合いをつけつつ、変わらないものはきちんと守ることが出来るのでしょうか。日々の挑戦は続きます。

十四冊目【生残る建築家像】

【生残る建築家像】著者 馬場 璋造出版社 新建築社建築家には、弁護士が持たなければならない社会正義や、医師の生命に対する倫理観と同質の、公共的側面が付随しているのである。特にデザインはクライアントと建築家と、そして時代と社会が、三分の一ずつ責任を負わなければならない性質のものであると考えるべきである。雑誌:新建築で、長年編集長を勤められた馬場璋造さんの著書。今の時代を生きる建築家の心得について書かれた本ですが、その他の分野にも通じる言葉がたくさんある名著でした。上記の引用のように、物事は見えている側面だけではなく、周りとの関係性で成り立ってるということを、日ごろから考えて行動することがとても大切なことだと思います。現代はそういった「関係性」が見えずらい社会であるとも思います。「お金を出せばなんでも買える」ということが、「普通」の社会にぼくらは暮らしていますが、それはけっして遠い昔から続いてきた普通ではなく、「新しい普通」に過ぎません。そして、当然のことですが「普通である」ということが、社会にとって、ぼくら自身にとって「絶対的な正しさ」であるとは限りません。しかし、一度受け入れた「普通」という概念は、驚くほどたやすく人を欺きます。周りの大多数がそれが普通だと言う時、自分の判断が良心に基づく行動か否か、惰性で流されて判断しているのか、正確に判断するのは極めて困難です。思想家ハンナ・アーレントは「悪とはシステムを無批判に受け入れることである」と主張し「悪の凡庸さ」という言葉で、ファシズムを批判しました。ユダヤ人の大量虐殺という愚行を行ったナチス。その活動を支えた支持者の多くは、所謂「ホワイトカラー」と呼ばれる、小さな商店主や、職人たちからなる下層および中産階級の人々でした。屈強な軍人、差別意識の強い人間、サイコパスのような特異な人々ではなく、「普通の人々がナチを支持し、支えていたのです。」彼らは「自由」であることに疲弊した人々でした。「不自由」な暮らしを強いられていた人々ではありません。自由で公平な社会が「平等」であるとは限りません。ナチスを支持した人々は、「自由」や「平等」に疲れた普通の人々だったのです。すべての不都合なことを「ユダヤ人」のせいにして、自らが優れた血統の種族であることを盲目に信じこむことで、自らを縛る権威に反抗しながら、自らも「優れた種族」として権威的に他者に対して服従を強いました。そして、そのような非人道的なことを行った多くの人々の実像は、我々が思い描くような残忍で屈強な人物ではなく、むしろ間逆の真面目で臆病な人物でした。個人では臆してしまうような残忍な仕打ちでも、命令であれば人は容易く行えてしまいます。イジメと同じ原理です。ナチスにおいても、残忍なことを「お役所仕事的」に淡々と職務をこなす「真面目な役人や軍人」が、大量虐殺を指揮していたのです。彼らの社会では、極めて分業化されたシステムが作られていました。ユダヤ人を密告する人・彼らを列車に乗せる人・列車を運転する人・毒ガスのスイッチを押す人…これらのことをひとりの人間に指示したら、人はそれを実行することはできません。しかし、工程が極めて細分化されていた為、「私はただ電車を運転しただけだ。それ以外のことは知らされていなかった」そんな言い訳が、我々と同じように「普通」な人々を殺人者にかえていったのです。「悪とはシステムを無批判に受け入れることである」とアーレントが指摘したのはこのようなことでした。話を戻して、建築というのはおそらく一般庶民が所有するもっとも大きな物体です。それは、同時にもっとも社会という他者と触れあう面積の広い存在であるともいえます。家は家族の生活する「場所」であり、その土地、その社会に生きていくという自らの証明でもあります。近頃の家は窓が小さく四角い箱のような印象です、対して、古くからの家は垣根等で目隠しされていますが、中と外の境界は極めて曖昧です。どちらも一長一短ありますが、家は家主が社会とどのように接していきたいと思っているかを如実に語ります。必要以上のスペックや、それに反発する必要以上の懐古主義もまた、システムを無批判に受け入れることではないでしょうか。万人に受け入れられる「正解」はありません。大切なのは常に「普通」のなかに身をおきながら「普通」を疑い、自分たちにとってなにが必要で不要であるかを問い続けることです。我々は我々の営みが地域や社会からどのような影響を受け、そして社会にどのようなに影響を与えているのかについて、もっともっと慎重に考えなければいけないのではないでしょうか。いかなる優れたシステムであっても、それを無批判に受け入れることは危険が伴うことだと、ぼくはそう思います。

十三冊目【武器になる哲学】

【武器になる哲学】著者 山口 周出版社 KADOKAWA「転機」というのは「何かが始まる」ということではなく、むしろ「何かが終わる」時期なのですが、多くの人は「開始」にばかり注目して、何を終わらせたのかという「終焉の問い」にしっかり向き合わないのです。読み始めて気がついたのですが、先日感想を書いた「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」と、同じ著者の方が書かれた本でした。前作と同様に、ビジネスパーソン向けの本で、普段、哲学と触れる機会の少ないであろう読者向けに書かれているので、とても分かり易い内容の本でした。「哲学入門」といったタイトルの本は、もう何十冊と読んできましたが、「哲学を生活やビジネスに活かしたい」と思っている方にちょうどい本だと感じました。本書の特徴は、哲学・思想のキーコンセプト【エポケー】【ブリコラージュ】【無知の地】等をひとつづつ取り上げ、「アウトプットの学び」と「プロセスの学び」をあげているところにあります。哲学に興味を持った人が一番につまづくのが、「そんなことは当たり前だろ」と感じてしまうところにあります。古代ギリシャの哲学者が唱えた説は、現代人の我々にとっては当たり前か、すでに馬鹿げてると証明された説かのどちらかしかないのです。例えば「地球は丸い」ことを、我々は実際に宇宙から映像を見て知っています。そのため「地球は丸い」という言葉から学べることは、ほぼありません。しかし、そのようなことを確認する方法がなく、また「地球が宇宙の中心だ」という地動説が常識だった時代において、コペルニクスが天動説という考えに至ったプロセスには、現代においても多くの学びや示唆に富んだ意味を教えてくれるのです。哲学なんて知らなくても生きていける。多くの人はそう考えています。しかし、どのような社会であっても、その社会を動かす原理やシステムが存在します。それは、パソコンのOSのようなものです。そして、我々はおおきな転換期を生きています。ブロックチェーンのような革新的な仕組みは社会のOSそのものを変えてしまう力があります。哲学・思想を知るということはそのOSの仕組みや長所短所を判断する力になります。なぜかといえば、どれほど優れた仕組みでも、人間が開発、運用する以上は、過去のシステムと相違点のないシステムというものは、まず生まれ得ないからです。多くの革新的アイデアは、「過去のシステムの発展的な回帰」としてあらわれます。その時過去の思想や流れを知っていれば、そのシステムの弱点にも気がつくことができます。また、その過去のシステムがどのように推移していったっかという点を知ることができたら、革新的アイデアの未来予測にも役立ちます。人間は案外シンプルな生き物です。使う道具はどんどん進化していますが、思想の面では古代ギリシャの哲学者からも学ぶことができます。「学ぶ」ということに日々眼をむけていたら、身近なところに発見や学びはあります。ミルが自由論で指摘しているように、「ひとつのテーマを完全に理解するためには、様々に異なる意見をすべて聞き、あらゆる視点から、そのテーマについて調べつくすことが必要だ」ということなのだと思います。当たり前だろ。と思っていることにも、その過程には多くの学びがあります。それは、子供に「なんで?」としつこく聞かれた時に、大人のほうが「確かになんでだ?」と考え込んでしまう経験としてあわられます。ほんとうに「分かる」ということは「分かることで自分自身が変わる」ということです。「知ってる」と「分かる」は異なります。そのような経験は大人になるとどうしても少なくなります。だけど、そのような自分が変わる経験を重ねることが学ぶということの本質ではないでしょうか?

十二冊目【思想家 河合隼雄】

【思想家 河合隼雄】著者 中沢新一・河合俊雄【編】出版社 岩波現代文庫河合さんは、焼き物を焼く陶工と似ているなと思います。陶工は粘土を造形して、火の試練を加えて、変型していくという作業をする。河合さんの心理療法を見て、心という粘土に対してよく似たことをしていると感じてきました。本書に収められている、養老孟司さんと河合俊雄さんの対話に出てくる一節です。河合隼雄さんは日本人として初めてユング派分析家の資格を取得し、日本における分析心理学の草分け的存在です。晩年は文化庁長官を勤め、就任期間中に小・中学校にスクールカウンセラー制度を導入されました。なんというか、これだけ聞くとお堅い人を想像すると思いますが、河合さんは同時に冗談が大好きで、「日本ウソツキクラブ会長」を自称されてました。講話がネットにあがってますので、ご興味がある方は是非一度聞いてみてください。大阪のおっちゃん感が出まくりで、なんとも愛おしい方です。僕が、河合さんの著書を読み漁るきっかけになったのが「中空構造日本の深層」でした。端的に説明すると、日本人は強く引っ張ってくれるようなリーダーよりも、いるかいないかよくわからないようなリーダーを好む。ということです。分かりやすいのが「天皇陛下」です。天皇がどのような意味で我々に対して有益で、我々を引っ張ってくれているか…そんなことを考える人はほとんどいませんが、天皇陛下が近くにお越しになると聞けば、おそらくヤンキーでも「なんかやばくね!」と少しテンションがあがると思います。なんの役にたっているか分からない存在を「象徴」として中心に据えているのが日本の構造です。例えば、部長がトンチンカンな指示を出してくる…するとすぐに次長が「あの人は現場のことがわかってないからなー。適当にいままでの感じでいいよー。」と、フォローしてくれる。こういったバランスが日本ではうまくいくんです。逆に、部下が失敗して次長から叱られる時には、部長が次長をフォローする、そういう形で相互に役割を補完しあっている。という構造が繰り返し古事記の中にあらわれていることを指摘し、それを「中空構造」と呼びました。コミュニティにとって中空敵な存在で、日本人に好まれるというキャラクターは映画や漫画の中に多く存在します。「こち亀の両津勘吉」「釣りばか日誌のはまちゃん」はまさに「部長は現場のこと分かってないなー。まぁ適当にやろう!」というキャラクターで支持を得ています。「ワンピースの麦わらのルフィ」も、「ドラゴンボールの孫 悟空」も日本的リーダー(ヒーロー像)の定番のキャラクターです。そして河合さん自身も中空的な存在を生涯貫きました。そのあり方は禅僧のそれに似ているように思います。禅の研究で世界に知られる鈴木大拙の口癖は「それは、それとして…」でした。「先生○○について教えてください!」と問われても「そうだね。うんうん。それは、それとして…」と、話の軸をずらします。それと同じように、先に挙げた主人公たちも、一様に人の話を聞きません。「勘違い」「早とちり」が物語を進める力として作用するのが日本の物語の中核にあります。落語の主人公も同じですね。お人よしのおっちょこちょいが、偶然問題を解決する。そして彼らは一様に権力や承認欲求を持たない姿で描かれます。日本人が求める理想の人格像は、バリバリ働いて公私共に充実してる完璧な人ではなく、「どこか憎めないやつ」なのではないでしょうか。日本は高度経済成長後に変わったような顔をしていますが、古事記の頃から変わらない構造を維持している国です。現代社会は、真面目な正義に満ちていますが、それだけでは人は息が出来なくなってしまいます。時には真正面から向き合うことではなくて、合気道のように相手の力の向きを変えるような力の使い方があってもいいのではないでしょうか。日々変化する社会を生き抜く為には「柔よく剛を制す」ということがひとつの道であるように思います。...われわれは自分の都合の悪いときや本当のことを言うと叱られると思うときなどに、都合のいいことを言うのです。それは客観的に見たら「嘘」をついたことになります。嘘をつかないようにしようとすれば、どんなに自分に都合の悪いことでも飾らないでオープンにしなければなりません。そしてそのことで相手に迷惑をかけたり、いやな思いをさせたなら、謝罪する必要があります。でも、これがなかなか難しいのです。嘘をつかないことと飾らないことは対になっていることなのです。...河合隼雄。

十一冊目【COL】

【COL】著者 ryoji nakashima出版社 自主出版つくるものはなんであれ自分のつくるものは建築である。と、半分本気で、半分そんなのは詭弁だと思いながら呟く。野菜は野菜だし、建築は建築だと思う。それぞれに役割があり、魅力がある。そこには明確な違いがある。農家には農家の、建築家には建築家の「普通」がある。 ~中略~ ところで「普通」ってなんだろう。「突き詰めた普通は、もはや普通じゃないよ」とこの土地で出会った先輩が教えてくれた。いま、ぼくは、ぼくが思う普通を普通に突き詰めている。同じ土地に暮らす友人が、家の隣に建つ築150年の木造の蔵をひとりで直している。家業の農家を継ぐために地元に帰ってきた彼は、建築家であることをやめなかった。さて、建築家を建築家たらしめるものはなんだろうか。ぼくはそれをよく考えている。ぼくは器屋で建築屋ではないのだけど、社会学や人類学をはじめとする人文の学問を好むものとして、個人と社会を繋ぐ要素のひとつに「建物」がある。それは「もの」としての建築でなく、自己と他者を繋ぐ概念としての建築についての関心でもある。例えば、家の前に置かれたベンチや花壇は、自分が楽しむ為だけのものではなく、外と内を繋ぐ言葉ではない記号になっている。内と外を分ける壁が建築だとするのなら、その壁はコンクリートでも木の板でも和紙でも布のカーテンでもよくなる。そう、壁にもいろいろあるのだ。威圧し遮断する堅牢な壁、内側の気配の伝わる薄く弱い壁。世の中には、そのどちらもが存在する。先ほどのベンチや花壇は後者に属する。ぼくはそんな弱く無意味で語らないものを好む。建築には確かにそのような要素があるのだ。そして、それはそのままその人の他者に対するこころの壁の厚さでもあるようにも思う。ぼくは、他者と自分の間にある壁を、「近づいても輪郭ははっきりとは見えず、点に力をこめて刺したら簡単に破れてしまう、和紙のようなもの」だと思っている。だから身近に感じる人であっても、結局はぼやっとしていて掴むことはできない。そう思っている。この近くに感じていても結局は分かり合えず、不完全な均衡を保っている状態こそが、本来の自然な「普通」の姿で、その不完全な普通こそ美しく愛おしいものだと考えている。そしてその「普通」は、ひとりでは作り出せず、周囲との関係性のなかで、浮かび上がってくるものである。人はなにかを考える時、頭の中で声を出して音読をしている。文字を読むときも同様だ。人は目の前の誰かに話すふりをして、実は頭の中の誰かに向けて話しかけている。それを自分に言い聞かせていると言ってもいい。それは言葉だけに留まらない、物語を書くときも、絵を描くときも、料理をつくるときも、内から外に出るものは等しく「想像の誰か」という「自分自身の分身」に向けて発信している。そして、「建築」も同様の意味があるし、むしろ他のものよりも、そういった側面が顕著に現れるような気がする。それは建物というものが、個人の所有するものの中で、もっとも社会と隣接していて、しかも長期間同じ場所に存在し続けるからだ。長く続いた村社会では氏名とは別に「屋号」というものを持っていた。「住居」と「個人」っは密接に関わっているのだ。現代においても建物は「建築家」と「施主」と「社会」の三者の共同の作品であると言える。建築はもっとも雄弁にその持ち主の想いを語りながら、建築家と社会というまったくの異質なものの言葉も語る大きな箱だ。「箱」といえば「器」と共通するところがある。どちらも中身が空なのだ。それが完成するのは、その中を満たしたのちということなる。とはいえ、器にせよ家にせよ、手渡した瞬間、受け取った瞬間が完成であると感じる人は多い。しかし、それは少しもったいないように思う、器や家に充実した中身を与えていくことは「こども」を育てることと似ている。教育とは常に、「教えているつもりでいる方が、実はもっと多くのことを学ばせてもらっている」のだ。同様に建築も常に「育っていくもの」であると、ぼくは考えている。「変わらない」ということは「変えないこと」ではなく、むしろ逆で、日々の微細な変化に対して「調整し続ける」という変化を受け入れることを指しているのではないだろうか。例えば、ラーメン屋のスープは毎日ほぼ入れ替わっている。そして、材料も毎日同じ品質であるはずはない。それでも、老舗の味はいつ食べても変わらない。と人は言う。しかし、それは変わっていないのではない、日々材料や気候の変化に対応して、「調整し続けている」のだ。建築もそうあるべきではないか。そして、そのような常に自己以外の要因に対して耳を澄ませて、調整をして、微細な変化を続けることを、「突き詰めた普通」とぼくは呼びたい。