笑う大人と、泣く子供。

鳥肌がたって泣けてきた。この写真集は個人的にすごく胸に響きました。

生身の人間が妖怪や怪異を演じることは、田舎の集落に住まわせてもらっている身としては、ごくごく身近なことで、僕自身毎年集落の獅子舞で笛を吹いています。

装束を身に纏った僕らは、僕らであって僕らではない「なにか」になっていて、人々は僕らではない「なにか」に拍手を送り、僕らの向こうにある「なにか」の存在に眼を向けています。

暗く、おどろおどろしく、怪しい…はたまた、暗く、重々しいものとしての妖や妖怪や神事の写真はこれまでも沢山見てきたけれど、現場の感覚からすると、祭りは厳かでありながら、はっちゃけていて心から大胆になれる緊張と緩和のコントラストが一年でもっと濃い日でもあるわけです。獅子を前にして、子供たちは泣き叫び、大人たちは笑っています。だけど、多くの場合、そのどちらかが抜け落ちている感じがしてしまうのです。

宮司さんの正体が、いつもふざけた冗談ばかりを言ってる近所の爺さんでも、祭りの瞬間だけは、本当に心から神聖な姿として感じられます。でも、翌日道端で会った時には、いつもの滑稽な爺さんに戻っています。そこにハッキリとした線引きはありません。ぼんやりとヌメっとしたなにかが、日常に侵入してくるあの感じは、言葉で言い表せません。


神事の当事者ではない人はあるいはこの本を見て、残念な気持ちになるだろうと思います。この本の中には幽玄とした幻想の妖怪や神々の姿はありません。あるのは「人の側」に限りなく近い生身の神々の姿です。

その姿に鳥肌がたつのです。怖くも暗くもなく、顔半分や下に履いたジャージや長靴が見えているのに、それは確かに人ではない「なにか」なんです。なんて愛おしくて優しい写真なんだろうと心から感じます。この写真を撮影した人は、悪戯に神々を高みや陰鬱とした藪に押し込めることも、賢しく人の側に引き寄せて祭りの後や支度を写すこともなく、ただただ、自然の光の下でシャッターをきっています。まるで、異界が日常であるかのように。不可思議な隣人のポートレートを撮影するように。

神々を神聖なものとして崇めることはもちろん大切なことです。でも、僕たちはいつのまにか神々を神事の最中にだけ押し込めて、日常から追い出してしまってはいないだろうか?本当の神々は日常のふとした瞬間に顔を出すチャーミングで悪戯好きな奇妙な隣人のような存在ではなかったのだろうか?

僕らは一体いつから怪しげで愛おしいもの達を営みの中から追い出してしまったのだろうか?そして、それらを追い出す時に一緒に人間が本来持っていた滑稽でおおらかで、どうしようもない下世話でダメで、だからこそ愛おしい部分まで、森の奥深く、海の底深く、鬱蒼と茂った鎮守の森の奥深くに閉じ込めてしまったように思えてならない。

「だけれど、彼らはいますよ。きっといますとも」

そんな言葉を、僕は信じている。そして、僕らの中にもまだギリギリ彼らのような自然な振る舞いが残っていると信じたい。

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