予祝。
ありがたいことにご縁に恵まれ、昨年末第一子を授かり、7月14日のお昼前に無事この世に産まれでてきてくれました。
母子共に健康で、今日からは僕と佳子と玄米と息子の三人と一匹の家族になりました。
朝倉 十一 (あさくら とい)
元気な男の子です。
僕は”名前”というものをとても大切に考えています。名前は親から与えられる一番最初の贈り物で人生において一番大きな贈り物でもあるからです。
”名を与える”という行為はどうして行われるのでしょうか?認識の為という側面もありますが、僕は名付けは一種の”予祝:よしゅく”であると考えています。予祝とは”予め与える祝い”という意味で、一般的には”豊作祈願”や”多産”を収穫より先に祈ることを指します。日本においてはタイミング的に春祭りであることが多いです。
「どうか病や天候に負けず健やかに育てっておくれ」と豊作を願うことと、子供の名付けは同質の祈りです。名を与えるということは”祝”と同時に”呪”の側面も帯ます。”祝”は”しめすへん”で、示すとは”自分の考えや行動を人に見せる行為”です。対して”呪”は”くちへん”で、”言葉にして出す”。という意味があります。この二つは似て非なるものです。示す、という言葉は行動や責任や結果を伴います。その過程で口を使うことはあるかもしれませんが、態度を示す。と言った時に相手が見ているのは、その場でどううまく説明するかではなく、これまでの努力や働きや苦労の方です。その意味で、祝から示すことを抜き、口だけで伝えようとすると呪と言うことになります。適当なこじつけですが、なんとなく説得力があります。つまり名前が祝いいになるか呪いとなるかはすべてこれからの行動にかかっているということです。それが責任というものです。誰かに観られているから行うのではなく、誰にも観られていないからこそ手を抜けないというのが本当の意味での”祝い”を成就する為に必要になるのです。
十一(とい)の名前の由来。理由はいくつかあります。ここに別に聞かれてもないのにこうして書くという行為そのものが、産まれ来てくれた息子に対しての僕からの大きな大きな”予祝”なのです。よろしければ僕らの祝いごとにしばしお付き合いください。
・理由その1。
アイヌ語でトイ”toy”は土、その中でも”田畑”を表す言葉です。大地は”shir”と言い、明確に異なるものとして認識されいたそうです。現代に暮らす僕らからしたら田畑と大地の違いについて考えることなどほぼありませんが、アイヌ語では明確に分かれていました。toyは”人の手の加わった自然”を指します。田畑のように耕し、平らになった土地のことを”toy”と呼び、神の住まいでもある手付かずの自然、起伏を持った原生林や谷のような形状を持った大地と繋がった”空間”としての大地のことを”shir”と呼んでいたようです。ちなみに”耕作することは”toyta”と言います。今、僕らの目の前にある景色のほとんどは、手付かずの大自然ではなく”toy”すなわち田畑や里山のように人の手の加わって作られた人工的な自然です。その意味で日本人の描く”自然観”はアイヌの時代とそれほど変わっていないと言えます。日本人がここは自然が豊かだなぁー。と感じる多くの場所が”里山”や”里海”を含んだ生活の場としての複合的な意味での自然を指します。僕は手付かずの大自然の前では畏怖を感じ萎縮してしまいます。それに比べると人の営みのある場所、かつてはそうであった場所に感じるのは温もりや慈しみです。
本来、日常というのは田畑を作るようなスパンであるべきです。それは一年、あるいは数十年、数百年の先を考え行う作業で、かつ、自然現象や環境の影響を大きく受ける営みです。非効率といえばそれでお終いですが、効率的であるはずの現代の営みはそういった見えない未来と過去を語る言葉を持ちません。ゆえに多くの人はお金はあるのに不安なのでしょう。本来であれば万能の交換ツール”お金”で、あらゆることをフェアに取引できたはずなのにそうではなくってきているのは、お金が壊れた訳ではなく、そもそも混じり気のない水では生き物は生きられなかった。ということだけなように思います。この世界に未開の地は地底や深海くらいしかありません。人が耕し受け継いできた”土”の中にある混じり気にこそ、味わいや暖かさや生命が宿ると信じています。なのでアイヌ語で田畑を意味する「トイ」と名付けました。
・理由その2。
象形文字で書くと”土”という字は上の横棒がなくて逆Tのような形で、”大地に神を祀るために柱上に盛り固めた土”の姿を意味します。原始的な信仰の形は世界共通で、シンプルに”大きなもの”や”柱”を建てることでした。諏訪の御柱祭や伊勢神宮は太古から続く神事や信仰の中心ですが、いずれも御神体は”柱”です。”柱”は”父性”つまり男根の象徴でもあり、大地という母性の象徴に”柱”という父性の象徴を突き立てることによって、交わり、新しい生命を生み出すことを意味しました。
神事において荒々しく柱を引きずったり立てたり倒したりする姿は男らしさを表しているのですが、実は大切なのはそこではありません。つきたてられた”柱”=男性は、”大地”=がなければ立っている事が出来ません。強い柱を立てるためには、より深く突き刺す力が必要です。父性というのは大きな柱のように遠くからでも見えるほど目立つ力強い存在です。しかし、その大きな柱を足元で支えるのは、もっともっと大きな母性の存在です。”男らしい”というのはただ勇ましいこととは異なります。勢いがなくてもいい、活発で元気に溢れていなくてもいい。目立たなくてもいい。ただいつも自分のことを支えてくれる人の存在を大切に想い敬うことが僕の思う”男らしさ”です。その意味で男らしく育って欲しいという願いを込めて”toy”十一と名付けました。
・理由その3。
僕の名前は”圭一”で妻は”佳子”です。”圭一”に”にんべん”と”了”を加えると”佳子”になります。”にんべん”はそのまま”人”を表し”了”は終わること・悟ることを表します。そして”了”という漢字の由来は”おくるみに包まれた赤ちゃんの姿”から来ています。
佳子は圭一に”人”と”赤ちゃん”を足した姿です。佳子が僕に人の縁と子供とを授けてくれる。もしかしたらそんなに意味もあったのかもしれません。気のせいといえばそれまでですが、そういうことって意外に大切なことです。そういうことはまさしく予祝といえます。二人に共通する文字が”十”と”一”の二文字です。
・理由その4。
十一”とい”の存在は僕らにとって、プラス”十”でもマイナス”一”でもありません。彼がいる場所が僕らにとっての”0”であり、これからの人生の起点となっていきます。僕らの暮らすこの家は、築150年の古民家を譲り受けて移築したものですが、十一にとっては”生家”であり、”実家”になります。僕らがゼロから建てた場所はこれまでの譲られたものであることを残しつつ、ここで生まれ育つ十一にとっては人生の起点であり、リターンポイントの”0”になります。だから、生まれてくれただけで、生きてくれているだけで、十一は僕らの生涯変わらない起点=帰るべき場所を与えてくれたんだよ。そんな願いを込めて十一と名付けました。
・理由その5。
繰り返しになりますが、僕は土と関わるということ、そして土地に根ざして生きていくということをとても大切に考えています。(土いじりは全然むいていなくて三日坊主ですが・・・)
「今は、ラピュタがなぜ滅びたのかあたしよく分かる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。土に根をおろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ」
シータの名言にあるように、現代を含めこれからテクノロジーの時代は遠からずラピュタを産み出すことでしょう。それは概念としての”科学力”の象徴”としてのラピュタです。パズーが夢見た”空飛ぶ楽園”は、その裏でムスカの言うように「恐ろしい科学力で地上を征服した恐怖の帝国」でもありました。人が人のつくりだした力を過信し、自然にも勝る力を得たと感じるようになった先にあるのは楽園でしょうか?それとも地獄でしょうか?僕は性善説を信じていますが、どうでしょう・・世が科学で楽園となるのは、人々が自分たちの産み出すものの、そして己の貪欲さや愚かさを悔いて、その力を捨てる・・もしくは制限しダウンサイズ化した先にしかないように思います。そういう意味で、人には”善性”が宿っているのです。
何も悪いことをしないことではなく、”悪いことをした”と悔いることを”善”と言うのです。本当の悪は悔いることなどしません。その意味でどれほどの過ちを犯してとしても、否、罪や過ちを犯すような人間であったからこそ、救われなければならないですし、救われるべき対象となり得るのです。
”悪人”とは無慈悲な殺人鬼ではなく、そうなってしまったことを後悔している人のことです。そうではない人はもはや人とは呼べません”悪人"ではなく”悪魔"です。どうしたらそうならずにすむのか・・それを考えるとやはり一番シンプルなのはシータの言うように「土に根をおろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう」そんな生活に足ることを知り、愛おしく思える心なのでしょう。一番に必要なのは土に根を下ろし生きることです。土の匂い、手触り、暖かさが、ともするとすぐに離れて遠くへ行ってしまう”生への実感”を繫ぎ止めてくれているものだと僕は思っています。
十一を縦に書くと”土”になります。土とともに生きてほしい。そんな願いを込めて、十一と名付けました。
・理由その6。
”土”は上下の長さを変えると”士”となります。”士”は成人した男性を表す言葉で、”学識・徳行のあるりっぱな男子”という意味があります。運動神経や活発さや賢さだけでなく優しい大人の男に育って欲しい。そんな願いを込めて十一と名付けました。
・理由その7。
”toi toi toi” トイトイトイは、幸運・成功を祈るドイツのおまじないの言葉です。言葉に合わせて、テーブルや扉を3回トントントンと指で叩きます。由来については、諸説あるようですが、誰かの幸運や成功・幸せをねたむ悪魔を追い払うための「魔よけの呪文」だそうです。「うまくいきますように!」みたいな意味だと思ってます。これもまた”予祝”ですね。「頑張れ!」というのは昔からどこか無責任な気がして苦手なので、この言葉の「うまくいくよ!」という言葉から「今日まで僕は君のことをずっと見てきた。十分に努力してきたからきっとうまくいくよ!君の成功を妬む悪魔がこないようにお呪いをかけるね!」みたいなニュアンスが感じ取れて、とてもいい言葉だなと思いトイと名付けました。
・理由その8。
浄土真宗において根本経典とされる 『大無量寿経』 そこには阿弥陀が仏となるにあたり誓約した”四十八の願”が書かれています。(僕らの暮らす集落に四十八滝という滝があります!) その中で僕が一番感心したのが、第十一願です。
「たとひ、われ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚(じょうじゅ)に住し、 かならず滅度(めつど)に至らずば、正覚(しょうがく)を取らじ。」
よく分からないですよね。意訳すると・・
「たとえ私が仏になったとしても、すべての人々がこの娑婆世界で必ず浄土往生が定まり、 この身を終えた後に涅槃(ねはん)を得ることがなければ私は仏になりません。」
という言葉です。阿弥陀如来はこの世のすべての人をこの娑婆=現世で救うまでは仏にはなりません。と宣言をしています。しかし、阿弥陀は、もうすでに阿弥陀如来=仏となっている・・ということは、この世に生きるすべてのものは「実はもうすでに救われていて、苦しみや悲しみや欲は現世の迷いや誘惑なだけで、私たちはすでに皆救われいるのにそれに気がつけていないだけ」なんではないだろうか?というなかなか大胆な考え方です。
僕はこの考えがとても好きです。まぁ言ったもん勝ちというか・・解釈の捉え方次第というところがあるので、ツッコミ所は満載ですが、それでも”脅す”ように現世では救われない。とか、先祖供養が足りないからだ・・と言うのではなく、「え?何言ってんの!もう救われてるよ!まだ気がついてないだけだよー!大丈夫大丈夫!」と言う楽観的とも思える捉え方は、実はとても理にかなっていて腑に落ちるように感じます。僕自身悩んでいる時一番の救いになっているのは、そんなこと大したことないよ!と笑ってくれる家族や友人の存在です。自分のことをよく理解してくれているからこそ言える「大丈夫」という言葉に僕はなんども救われて来ました。
十一という名前を考えた時に真っ先に思い出したのが第無量寿経の十一願でした。十一がこれからの人生で悩む時、迷う時、立ち返ってもらいたいのが十一願です。大丈夫。僕らはもう救われてるんだから、思いっきり泣いたり笑ったりしようね。そんな願いを込めて十一と名付けました。
・理由その9。
”問う”ではなく”問い”を大切にしてほしい。誰かに対して、社会に対してイタズラになにかを問うのではなく、まずは、いつでも自らの心のうちに、そして他者や社会に対しても内なる”問い”を持って欲しい。だからトイという名を付けました。
”問い”とは、違和感をおざなりにしない姿勢です。なんとなくおかしい・・何か引っかかる・・そう言った感覚は意外と当たっているものですし、イノベージョンのきっかけの多くはそう言った機微な引っ掛かりから生まれて来ます。
世の中に求められるのは大きな革命”だけ”ではなく、普通に暮らしている庶民が暮らしや政治や国のあり方に対して感じている小さな違和感を、きちんとした言葉とし、しっかりとした態度に表して問うことです。どうしたら声が届くのか?システムは本当に上手く機能しているのか?誰に問えば納得できる答えが聞けるのか?そう言ったことを日常的に問い続けていなければ、いざ自分の番が来た時に言葉は出て来ません。分からなくてもいいんです。問いをたくさん持ってもらいたい。そんな願いを込めて、十一と名付けました。
・理由その10。
十一面観音は頭部に11の顔を持つ菩薩です。十一面観音は10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われいます。
・十種勝利
離諸疾病(病気にかからない)
一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。)
一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
水不能溺(溺死しない)
火不能燒(焼死しない)
不非命中夭(不慮の事故で死なない)
・四種功德
臨命終時得見如來(臨終の際に如来とまみえる)
不生於惡趣(悪趣、すなわち地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない)
不非命終(早死にしない)
從此世界得生極樂國土(今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる)
親が子に対して願う祈りは、時代や場所を問わずこの10と4の願いではないでしょうか。僕の中でのイメージですが十一面観音は、時に厳しく時に優しく時に親身に、また時には冷たく多彩な姿で人々を導く観音様です。他人に対してはそのような人であってほしいというのも十一の文字を名前に入れた理由です。
ここまで来たら十一個書きたいと思いましたが、言葉には”仮名”と”真名”という二つの意味があります。文字通り仮名は”仮の名”で、真名は”真の名”をあわらします。十一番目の願いはあえて書かないでおきます。これ以上多く書きすぎると”口”がすぎて、”祝”が”呪”になってしまうかもしれません。なのでこれは僕の中だけで留めておきます。 十一に込めた祝いどのようなものであったかは、彼が大きくなった時に彼自身が示してくれることでしょう。
生まれてくる子供には、出来るだけ多くの予祝を与えたい。そんな思いで十一に関することを調べていた半年余りの月日はとても楽しいものでした。
名は体を表すと言います。我が家の十一はどんな子に育つのでしょうか?それは誰にもわかりません。
願わくば、学業や運動など別に出来なくても構わないので、様々なことに関心を持ち、たくさんの出逢いを心から喜べる人になってもらえたら。そんなことを願います。
知ってることは殊更に語らず、知らないこととの出会いを心から喜べる人になってくれたら、父はそれだけで本当に本当に嬉しいです。でもまぁ、無理してならなくても全然いいからすくすくと育ってくれたら、本当はそれだけで嬉しいです。
十一。生まれて来てくれてありがとう。
これからよろしくね。
父より。
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