若者のことが分からない大人。自分のことが分からない若者。


・分からないことが分からない時代。

 いつの時代も若者と年長者はそりが合わない。もしくは同世代であってもなかなか感覚の共有が出来ない。なぜそうなってしまうのか?様々な要因があるのだと思うが、思うに多くの人々は、「自分がなにを分かっていて、なにを分かっていないのかが分からない」のではないだろうか。

何を尋ねればいいのか、どこへ向かえばいいのか、そもそも目の前の人となんの話をしたらいいのか、そして目の前の人がなんの話をしているのかが判断ができないのは、別に嫌いとかではなくて、理解できないのではないか。これは「自分が知らないことがなにであるか知らない」から、おこる状態であり、同時に「自分の知っていることがなにであるか」についてもきちんと整理できていない状態だから起こる状態です。まったく知らない専門分野の会議に放り込まれたようなもので、糸口が見つからない状態…大体において経験したことがないことは「比較」しようがない。よって「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という諺の示すように、がむしゃらに様々なことにチャレンジして、興味のあることに出会える「当たりをつける精度」を向上させることが求められます。

しかし、ただがむしゃらにやっていても精度はあがりません。やみくもにバットを振ってもボールには当たらないし、たまたまホームランを数回出せてもそこに理論と計算が伴っていて、狙って打てなければプロにはなれない。

では、どうすれば思考の精度=選球眼の精度を高められるか…考えるに、この点に関して既存の教育は適切な答えを教えてくれない。では問題はどこにあるのか?そんなことを考えていたら最近、対話のなかでしっくりきたことがあったのでなにかヒントになったらと思い書き残そうと思います。

 

・「比較」中心社会。

 社会の中で生きていると、多くの物事が「比較する」という方法論で動いていることに気がつく。「比較」とは、観察する対象を細かく分解して「違い」をあげていくことでAとBがどのような点において異なるかを細分化して判別し、優劣や差異を判断していく方法だ。少し前までこの方法で人生の「正解」を導き出すという手法が一般的だったように思う、しかし現代においてはあまり効果的ではなくなってしまった。

なぜならば、この「比較」による「正解探し」には、文字通り「正解」が必要となるからだ。この戦略が有効なのは、「一流大学を出て、一流企業に就職して家庭を築くのが幸せ」というような人生のロールモデルが「正解」として、はっきりしている時の話だ。さらに「比較して答えを導きだすのが早くて、答えが正確であること」を職能として求められるのは「公務員」や「銀行員」だ、しかし現在はそれらが過去のように憧れられる時代ではないし、それらの職種が永続する保障はない。なぜなら「比較して正解を導き出す」という作業をもっとも効率的におこなえるのは人間ではなく「コンピューター」だからだ。

現代はユーチューバーのような存在が成功者だけれども、それは職業としてのロールモデルというよりは、個性や特異性と合わせてそれらを見通すマネジメントのスキルが求められるので、個人でそのモデルを追いかけることは、あまり現実的ではない。それこそバットを闇雲に振るようなものだ。

例えば戦後期のような混乱期で、情報が少なく、物資も少ないという状況であれば、「隣町の成功者」を真似するだけで事業を築けた。たとえば電気や水道の整備された地域から、その技術と技術者をまだインフラ整備の整っていない地域に持ち込めば、それだけで事業となり得ました。同様に紳士服屋:帽子屋:魚屋:荒物屋:瀬戸物屋などの個人商店が地方の商店街や周辺にたくさん開業していたのは、現在でいうところの「ネットショップ」で開業する。ような感覚であったのではないでしょうか。ほしい人がいて売るものを仕入れられるから商いを起こす。人口の増加で消費者は増える一方でしたので、これまではそれで良かったのです。

しかし、現代の日本は飽食の時代となり「幸福像」が個々に多様化し始めると、消費者の求めるモデルも多様化するので、これまでのような広告戦略やマーケティングは効果を失ってきています。隣の芝生を青く見せることで爆発的に消費行動を促してきましたが、僕らはその「隣の芝生」が実はハリボテだったり、一年後には枯れてしまっていることに気がついてしまいました。「持続化可能性」な物事が求められる時代において、なにかをはじめる際に求められるのは「ここでやる意味」のような極めて抽象的なものになってきています。企業が社会貢献をして当たり前、文化に貢献して当たり前という時代において、「資源があるから活用します」というフローの話だけではなく、「利用した資源をこのような形で還元して循環させます」というキャッシュを創り出すことが求められているのです。各自の仕事が「地域性」や個人の「想い」「経歴」のようなものに根ざしたものであることが、求められ始めています。

そんな時代において、理想の企業や、理想の地域の成功譚を対象として「比較」することで導き出された答えはどれも「表層的」になりやすいです。誰もがマーケティングを出来る、知っている時代においては、「論理的に意味がある」ということは、すぐに模倣される可能性が高くなります、しかも、後だしじゃんけんであっても、資本を持っている企業に大きな規模で真似されれたら一貫の終わり…という、いたちごっこが続いてしまいます。それでは「比較」され「消費」されない生き方を見つけ出す為には、一体どのような方法で考えればいいのか?「比較」する以外の方法で対象を見つめる方法はないのかといえば、もちろん存在します。それは原始の時代から人類が使用してきた非常に古い思考法であり、この思考方法によって人類は文明を作りだすことが出来た。と、人類学者の折口信夫は論じています。端的に言えば、思考のプロセスを変えることが「自分がなにを分かっていて、なにを分かっていないのか分からない」という状況の一つの打開策であり、さらに「センスの有無」や「不透明な時代を生き抜く知恵」に関わるってくる問題だと考えています。それは「類推(アナロジー)」という思考方法です。


・「類推」の可能性。

「類推」「似かよった点を基にして推量する」という思考法です。日本人には古い時代からなじみのある考え方で、フランスの人類学者レビ・ストロースは名著「野生の思考」の中で、未開人の心性と思考を、近代科学的思考と異なる非合理的なものとする偏見を批判し、それらが「野蛮人の思考」ではなく、「栽培思考=文明化した思考」に対する「野生の思考」であると書き、晩年日本へ訪れた際には、「日本には野生の思考がいまも息づいている」と興奮された。という話があります。

「似かよった点を基にして推量する」という思考が古代において最大限発揮されたのが「神話」です。日本書記やアイヌの英雄叙事詩ユーカラに描かれる神話の世界においては、人間と動物の世界に区別はなく、現代人の我々には理解しがたい物語が多くあります。日本書記に描かれた天照大神は太陽を「擬人化」した女神ですが、自然現象を「擬人化」して「神話」という物語にすることで、一見すると人間とはまるで異なる「自然」という存在を自らと同じ存在として捉えることで様々なことを理解し、鎮魂する知恵を古代の人々は持っていました。

津波や地震といった天変地異を「祟り」や「怒り」として捉え、「祭事」等を通して怒りを納めようというのは、現代においては「非科学的」だと捉えられがちですが、当時の人々にとっての最良の方法であり、現代風にいえば事故調査委員会のような役割を「信仰」が担っていたのです。当然の不条理な出来事を短期間で明確に納得することは出来ません。時間をかけて少しづつ受け止めていく作法「弔い」の大切さを現代人は忘れてしまいました。

世界的に見ても現代人はこの考え方の作法を失ったから様々な問題を抱えているのではないか。と僕は考えています。「比較」して原因を究明するというやりかたは、比較対象が定まらない前代未聞の事態においては非常に無力です。それは原発事故の対応を見ていれば明らかです。求められているのは「物理的な安全」ではなくて、「慰霊と鎮魂」のサイクルを脈々と受け継いでいくことのはずです。そのような事態に対処できるのは古くから培われてきた信仰や神話のような物語として語り継ぐことだけだと思います。

 「類推」「直感」とも言える感覚ですが、実は子供の頃は誰もが持っている感性です。砂場での「おままごと」や、木の棒を使った「ヒーローごっこ」をしている時、お椀にさらさら流れる砂とお味噌汁を類推して「同じもの」として取り入れます。木の棒を剣とするのも同じ原理です。棒も剣も「握って振れる同じもの」です。ところが大人になって論理的になると、この見方は薄くなります。

たとえば日本人は「見立て」が得意といわれていますが、まったく異なる用途のもの、例えばブリキのバケツであってもを、床の間に置かれて花が生けられていたら「花入れ」として認識します。この時、理屈で「バケツ」と「花いれ」を同じだとは考えませんが、「似かよった点を基にして推量する」思考で考えたら、「バケツ」も「花いれ」も水も花もいれらて同じ要素のものです。

身近な言葉で表すと「なぞなぞ」や「とんち」が「類推」の思考方法です。知識が子供よりあるはずの大人ほど答えられない、「パン」と「フライパン」の類似点や、「このはし渡るべからず…」という問いに対して「自分がなにを分かっていて、なにを分かっていないのかが分からない。」という状態にさらされるからです。つまり前提となる「なぞなぞ」「とんち」のルールが理解できないのです。そしてこの前提が理解できない。というのが、コミュニケーションの場にも大きく関係してくるのです。


・このままではやばい日本。

現代を生きる我々が感じている問題は実にシンプルなものです。「このままでは日本はやばい」ただそだけです。これに関しては老若男女すくながらず感じているはずです。そして原発事故の時のように、これまでとおりの「比較」では、少子高齢化というマーケットの縮小に対する答えは「グローバル展開」です。つまりは、たくさんの物を効率よく作れば、どこかに必ず需要が産まれる。という考え方です。これを「セイの法則」といいます。しかしそれは日本が技術やブランド力で勝っていた時代の話です。今後アジアの経済発展に追いていかれるのは必須です。

時代はおおきな変化の過渡期です。テクノロジーはこれまで以上に人間の不便さを補うように進化し続けます。5G通信が整備されれば、自動運転や遠隔医療、遠隔介護が実現します。これは少子高齢化に対する適正な答えでしょう。時代と共に人ひとりあたりの仕事量が減るのは当然のことです。例えば農業は、牛ではなく車とトラクターが登場したことで人足を確保するために大家族である必要性がなくなりました。これは世界中どの民族でも同じで、文明が発展すると子供=労働力が不要になるので少子化し、核家族化していきます。

先の章でも書いたようにこれからは「比較」して考えるタイプの仕事は機械が代行してくれるようになります。私見ですが、最近スーパーやコンビ二のレジがオート化、もしくはお金の計算のみ機械化されていますが、本来であれば作業が減った分余裕が生まれるはずですが、実際は愛想が悪くなった店員さんが多くなったように感じます。それはこれまでのようにレジでの清算業務に責任が伴わなくなったので、人間も機械的になっているのでしょう。別に世の中の機械化すべてに反対なわけではありませんが、スーパーのレジに効率を求める人が多いのは事実ですが、そこが八百屋とスーパーの違いであり、レジだけが店員との交流の場であることを忘れてはいけないと思います。これがなくなれば無人販売と同じになってしまうので、しかし、これは別に今始まったことではありません。

洗濯機も冷蔵庫も掃除機も電子レンジも湯沸かし器も主婦の負担を軽減するために登場し、それまでたくさんいた「女中さん」や「お手伝いさん」の居場所と仕事を家からなくしました。その時点で生活のスタイルはおおきく変わりました。そして、その後、便利な生活と余暇を手にした女性たちは、ランチに出かけたり、パートタイムに出るようになります。「第三号非保険制度」年間130万以下の稼ぎがもっとも効率よく得である制度が出来たことによって1980年代以降小売業やサービス業には、パートタイムの女性が流れ込みます。高い賃金を求めない主婦パートによって薄利多売の現在の仕組みは支えられ、その余波で若者のアルバイトの賃金水準も大幅に抑えられることになり、フリーターの低所得へと繋がっています。

70年代以前の日本人の平均的な生活者は「自営業者」でしたが、70年代以降の「一億総中流社会」とよばれる世代以降、現在にいたるまで「サラリーマン家庭」が日本の平均的な生き方のモデルになりました。現在の50代前半くらいまでがそのロールモデルを「大人の教養」として大人から語られた世代です。そして、誰もが習ったこと感じたことしか教えることはできないので、その「サラリーマン的なものさし」で、現在の我々を計った時、「なぞなぞ」が理解できない大人と子供の構造が再び現れてくるのです。

「このままでは日本はやばい」という同じ意識でありながら話がかみ合わないのはそのせいです。短期的なフロー(利潤)を回すことで豊かになった世代には、キャッシュ(資産)を貯蓄する理屈は理解できません。「セイの法則」に従うなら、成長する為には手を止めてはいけないのです、在庫がどれだけ余っても作り置きしておけば必ず需要がある(はず)なのですから、山の木を刈りつくして、成長の早い杉を植えれば儲かる。といった近代林業を例にとると分かりやすいかもしれません。「林業」を単なるお金儲けの手段のひとつと捉えた時、どのようにしたら効率的か…と考えた時、山が持つ保水機能や、海や田畑に与える養分のことや、そこに生息する動植物のことなどは、数字から消されて見て見ないふりされたのです。近代以前の林業は先祖代々受け継いだものを祖先へと受け継ぐというあり方でした。僕ら世代が再びそのようなロングスパンの生産に興味を持っているのは考えたら当たり前のことです。荒れ果てた山を見て、これでお金が入って豊かになるぞ!と感じていたのは過去のことです。現代を生きる世代は「このままでは暮らしている地域がまずいことになる…」ということを、減ったトンボや蛙の鳴き声から肌で感じ始めているのです。

 団塊世代は貧しい田舎で育ち、その経験が高度経済成長の活力になりました。貧しい暮らしには戻りたくない…子供たちにあんな暮らしをさせたくない。という強い想いや願いがありました。そして団塊ジュニア以降の世代は親世代が地ならしをした豊かな地方に生まれた最初の世代です。田舎はもはや貧しくなく、豊かさはより都会に近づくことになりました。しかし団塊世代のように貧しさに対するコンプレックスは希薄です。なぜならバブル景気とういう特需に沸き、そこからの派手な転落という、時代に翻弄された形になった為、「貧しさに戻りたくない」ということを原動力とした世代と異なり、「豊かさに還りたい」ということを原動力ではなく「諦める理由」に出来てしまった世代だからです。

そして、僕は1984年産まれのポスト団塊ジュニア世代です。産まれた時点で最低限の生活は保障され(貧困や格差が少ない)不自由のない人生をおくることで「ゆとり:さとり世代」と呼ばれる無気力な世代と呼ばれます。しかし、それは規範とするモデルを失い、さ迷い歩く世代ということではないかと僕自身は感じています。パートとアルバイトの話のように、あくまで「サラリーマン家庭」をモデルとして様々な法整備、税金政策が練られた為、その型にはまらない人々は、「その他」としてモデルを提示されませんでした。結果として、自分たちでなんとかしなければいけなくなったので、ゆとり、さとりのように現実逃避とも取れる行動は「自己防衛」の一種なのではないでしょうか。

さらに大震災を経て既存の豊かさ=「サラリーマン社会」の問題や幻想を知ってしまった世代は、規範となる大人のモデルを完全に失いました。今、大学生のバックパッカーが増え、国内のゲストハウス需要が高まっているのは、バブル崩壊後の90年代に我々世代がTV番組電波少年の影響を受け、アジアや世界一周を志した若者が急増した時期と状況が似ています。大震災もバブル崩壊も個々人の範疇をこえた出来事です。それらを理解、租借するためには「旅に出る」という「物語」を持つことが求められたのです。

ポスト団塊ジュニア世代の我々は本能的に「比較」だけでは頼りないので、忘れさられえていた「類推」の知恵を求めて地方へと移動しているのかもしれません。


・ググる世代の歩き方。

「類推」について考えるうえで興味深いことがあります。それは「ググる(検索エンジンGoogleで検索すること)」という行為です。僕は古本を扱っているので団塊世代の遺品整理で本棚を見てほしいと頼まれることが稀にあるのですが、その世代の本棚には確実に辞書が複数冊並んでいます。現代人の暮らしでは辞書をひくことなんてほとんどないのではないでしょうか?僕をはじめとする若い世代は辞書をひかない代わりに「ググる」のだとしたら「情報弱者」と呼ばれる人が現代においても多く存在しているのも理解できます。

目の前の端末から無限にも等しい情報にアクセスが出来たとしても、「自分がなにを理解していなくて、なんと調べたらそれが分かるのか…」それが分からければ、それは、単語が分からなくて辞書をひけないのと同じです。団塊世代に比べて僕らは圧倒的に勉強をしなくても生きられます。テクノロジーは勉強をしなくても機械が代用してくれるので、一億国民が中流の生活をおくれるほど便利になりました。たとえばレジ打ちにそろばんの知識は不要になったし、経理の仕事のほとんどはパソコンが変わりに計算してくれている。昨今AIに仕事を奪われる!という議論がありますが、もう何百年も前から人は機械に仕事を置き換えて現在の速度で豊かさを手にしてきたのだから、いまさらなにを?と思うわけです。

しかし、その科学とテクノロジーを手にした代償として僕らは圧倒的な量と質のある「過去の英知」を、どのように紐解けばいいのか、これからの暮らしやビジネスに活かしていくのか。ということを忘れてしまいました。

「教養」は「学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ」と辞書にあるように、個々人のそして社会全体が「心の豊かさ」を持つことを中心にすえていました。しかし経済成長以降は分解され、教育現場でも「知識」だけを教えるようになりました。ちなみに「知識」は「認識によって得られた成果、あるいは、人間や物事について抱いている考えや、技能」とあり、「考える力」とよく言われることですが、ここでいう「考える」というのは「比較して考える」という側面が強く強調されています。そうしないと効率よく学習できないので結果として、皆が同じことを同じように考えられるように、仕組みが作りこまれていき、さらには市場原理(自己責任をベースとし、小さな政府を推進し、政府が市場に干渉せず放任することにより国民に最大の公平と繁栄をもたらすと信じる思想的立場)を、教育にも取り入れたことで、より効率的、利益的な教育原理が加速しました。そして、「一流大学を出て、一流企業に就職して家庭を築くのが幸せ」というモデルが万人の幸せなのだ!と確立されるにいたります。

繰り返しになりますがこれは過去の話になりつつあります。なぜかといえば。別に商業的になった学校教育に頼らなくても、辞書を正しくひくように、インターネットで正しい情報と繋がれれば、人それぞれの幸せな家庭が築ける時代になってきたからです。

つまりこれからの日本には『辞書を正しくひく能力』と等しく、『自分にとって有益な情報をググることが出来る嗅覚』が必要となります。ここが分岐点になるでしょう。なぜなら辞書は少なくとも現状の社会という検閲を通って発刊されており、情報の精度は高いですが、ネット上に書かれていることは、なんの検閲も通ってはいないので。フェイクニュースや誤った情報も多く存在するからです。

どうすれば正しい情報を見分けられるか。となるとまたしても「類推」が必要となってきます。とはいえ思い込みは禁物です。「比較」の場合も比べる対象を間違えたら答えを誤るし、「類推」にしても抽出する点を誤ると事実とは異なったことを信じてしまう可能性が出てきます。いずれの場合も必要になるのは「多くの比較対象」を知っていることです。AとBを比べるより、その周囲のDとかEとかも頭に入れていればそれだけ間違いに気がつくことが出来ます。それゆえに生涯、学習を続ける必要がすべての人にあります。

しかし「多くの比較対象」と一言でいっても、闇雲に情報を調べたり、人と会っていたら時間がいくらあっても足りないので、比較して効率化をするか、類推であたりをつけていく作業が必要になります。

いずれの場合も最短の道は「興味をもった相手の興味」を探ることです。なにからも影響されず完成した思考を得ることはありえないので、この人はやばい!と感じたなら、まずはその人の本棚を見て、なにに興味があるかを探るのが一番です。最近ではSnsでその人のつぶやきや交友関係を調べるのが簡単に出来るので、本人そのものに近づくよりも「周辺」をつぶさに観察することが一番の近道になります。「○○さんが読んでた本、自分も読みました!」と言われて嫌な気分になる人はまずいません。無難な天気の話や、興味のない話をしてくる人よりはるかに印象に残ります。人は誰でも自分に興味がある人にはあからさまな敵意は向けないものです。

そういった周辺の事柄から本体を推測するのも「類推」的なアプローチと言えます。憧れの対象と自分の関係は、「師弟関係」に例えるとわかりやすいです。弟子に求められるのは師を超えることではなく、師の思考や行動の意味を理解することです。理解の精度が高まれば師の言わんとすることが理解できるようになりますが、それはただじっと耳を澄まして受身でいてはけっして体得できません。師の行いを理解する為には師だけを見ていてはいけません、師の興味を自分の興味とすることで、対話を重ね一体化することで、初めて少し理解してような気になることができるものです。

「比較」だけでなく「類推」を活用することで、先行き不透明なこれからの時代でも生き抜いていくことができるかもしれません。「なぞなぞ」「見立て」「比喩」…総称すると「うまい事言う人」は生存能力が高いといえます。ひねりの効いた返答をして周囲を和ませたり事態をよい方向へ導く。というのは日本人の思い描く「知性」のあり方です。これは「落語」を聴いているとよく分かります。一休宗純のとんち話にも多く見られます。それらは現代風にいえば「コミュ力が高い」と言われるタイプの人々ですが、単に顔色を伺うのがうまいという意味ではなく、「異なった人物や物事の中に通じるものを見出してつなげる」という編集者のような技能がこれからの時代の必須技能となると思います。

「自分がなにを分かっていて、なにを分かっていないのかが分からない。」

この状態を解決する方法に近道はありませんが、先にあげたように、まずは自分の好きな人、もしくは自分の嫌いな人の周囲を観察することから初めてみるといいように思います。

以外な共通点が見つかれば、単なる知識から自分だけの「ものがたり」となるので記憶と感動のレベルが大きく変わります。それが「類推」の力です。見聞きして分かったような気持ちになる前に気になったことの周辺についてから考える癖をつけたら、このつまらない世界がほんの少し美しく見えるのではないかな。と思います。


~あとがき~

比較も類推も過度に偏ればバランスを崩します。

この不透明な時代を生き抜くためには、強い意見ではなく、中庸なバランス感覚が求められると思います。「類推」ということを考えるうえで一番参考になるのは「自然界」です。自然はもっとも調和のとれたバランスを自ら回復する力があります。海外の先進的な事例と呼ばれるものの中にも東洋的な日本的な考えとまったく同じようなものがあります。きっとどちらも「自然との調和」を旨とした考え方なのでしょう。「答え」が簡単に見つからない時代だからこそ、様々なことにチャレンジできる余白があるのもまた現代です。

比較は二元論にたどり着きやすく、結果として無自覚、無批判な凡庸な人々を創り出します。それは、そのほうが消費者として都合がいいからです。しかし、我々ポスト団塊ジュニア世代やその下のミレニアム世代は、旧来のそこから抜けださなくてはいけません。それは「革命」ではなく「改変」だと僕は考えています。今あるものを使って新しいものを作ることを人類学では「ブリコラージュ」と言います。僕らは焼け跡からバラックを作り経済成長を支えた「貧しさを知る団塊世代」から学ぶことがたくさんあります。僕らもまた現在のような「壊れかけの民主主義」や、「搾取され放置された自然」という新たな「貧しさ」を目の当たりにしている世代です。続く世代にこれらの負の遺産を残さないために、怒るのではく学び、時代の持つ良い部分だけを吟味・抽出し、ブリコラージュしていく作業が求められているように思います。

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