最近考えていること。2019/2/28
ものの売り買いから「コミュニケーション」の要素を排除して、効率化、公平化したのが、貨幣社会…。これからは、貨幣を媒体とした取引の利点は活かしつつ、「コミュニケーション」の占める割合をいかに増やしていけるかが重要。
当たり前のことだけど改めて…売れる売れない論になると途端にこういう当たり前のことを見失う。かといって個の見出す価値観に固執すると、自己顕示欲を満たす為だけのおかしな物を作りだしてしまう。流行を追うことも同じで、双方共に足りないのは「他者とのコミュニケーション」だと思う。
それは、どこにいるか分からない「お客様」とか「市場」に対してではなくて、家族や仲間といったもっとも身近な他者との対話不足だ。これが足りないと、よく考えたら分かりそうなおかしな決断を、堂々としてしまうことになる。
みな後から言うのだ「だからやめとけばよかったのに」と、なぜそうなったかといえば、それは他でもない自分自身が、その彼らと「会話」してきたけれど「対話」をしてこなかったからだ。
仕事柄もの作りを生業にする方々とお付き合いが多いが、よいものを、悩んだ末に楽しそうに作り、それをこれからも末永く継続できそうな方は、みな周囲との関係が良好だったり、夫婦仲、家族仲が良い、あるいはきっちり仕事における関係性が整理されている。
一様に依存関係ではなく、互いのあり方に敬意をもって接していることが感じられる。だから安心して物を選べるし、安心してお付き合いができる。どれだけ売れそうでも、不健康だったり、環境が劣悪であれば、未来は見えない。
これは、別にもの作りに限らず、商い全般、また「まちづくり」とか「建築」とかにも言えることだと思う。センスがない人のほとんどが「対話的」ではない。それは本を読むとか、いい大学を出てるとか、そういうことで養われることではない。
対話的な人は「自分と周囲の関係」についてその人なりのポリシーや哲学を解した言葉で話せるし、話を聞くことが出来る。逆に非対話的な人は「自分が周囲からどのように見られているか分からない」つまり「置かれている環境での自分の役割」が見出せない=空気が読めないのだ。だからそういう人は常に焦っていたり、新しいものに飛びついてみたり、自分の話を繰り返ししてきたりと、節操がない。「これでいい」というあるべき自分像を決められるのは、非階級社会の自由主義の現代においては自分自身しかいない。
それは、地図とコンパスを持たず旅に出てしまった人が、目的地の方角も自分が今いる場所についての情報も確認するすべを持たないのと同じことだ。どうしたらいいのか分からない…というのは程度の違いがある、「どこに行きたいのかも分からない」のと「目的地までの道のりがわからない」では雲泥の差だ。必要なのは旅の準備だ。装備を整えることからしか安全な旅は始まらない。そして旅にハプニングはつきもので、おおくは運と縁だということを理解することも必要だ。
自分自身のこと、社会全体のことを「俯瞰する眼」という「地図」を有してるか否かは、「対話」が出来るか否かで簡単に判別できてしまう。
どこにいても、誰といても自分は自分だが、母親の前と恋人の前と上司の前では態度を変えるのと同じように、「文脈を読む」ことで人は他者と対話的に接することが出来ている。それが出来ていない人が正しさを武器に言葉を紡いでも届かないし、誰も動かないのは、世界的権威だからといって家庭環境が好ましいとは限らない。という点で明らかだ。
どれだけ「知識」を要していても、それを個々に応じて伝え分けることが出来なければ伝わらない、その為に「対話という地図」が必要になるのだ。国が違えば地図記号も地図の見方も変わる。けれども、たくさんの地図の知識があることや、一定の法則に理解があれば、互いの地図を見ることで、出発地点、辿った道筋、目的地を知ることは出来る。大変な旅路を想像することで相手に対しての理解も深まるだろう。もし相手が地図を持たず、軽装でこの先の雪山に向かおうとしていたら止めるだろう。たとえ彼が熱意と使命感に燃える勇者であったとしてもだ。RPGゲームで考えても分かりやいだろう。「非対話的人間」は、町での情報収集もしなければ、小さく貧しい町で適度な武器を揃えることもしない。思い込みと予測だけを頼りに闇雲に動き回る。そんな人を仲間にしたがる人はいないだろう。
もうひとつ違う例を出してみよう、子供に昔話を読み聞かせる時、黙って聞いているのは「理解」したからではない。夢中ではあるだろうが、それは理解ではないし、むしろよくわからないから黙って聞いている。学校の授業で無心の時、すべてを理解しているわけではなく、むしろ理解することを放棄した瞬間だった経験があるだろう。あの感覚に近い。
理解とは「なんで桃太郎は桃なの?リンゴじゃ駄目なの」と疑問を口にした瞬間に発生している、理解したいという思いが産まれるのだ。それに対して「桃太郎はそういうお話だからね…」と言い聞かせるのは「対話」ではない。それは「会話」だ。それに対して「そうだね。わからないね…よし!一緒に調べてみようか!」となるのが「対話」だ。そして、親子で調べることで子供の親も知らなかったことを知ることになる。
「桃が中国で尊い食べ物と考えられていたこと」「日本の昔話だけど、大陸から伝わった儒教の思想の影響があること」「日本書紀にも桃が出てくること」などから、実に多くのことを学べる。対話によって「桃太郎」に対する印象は大きく変わる。「そういうものだ」と決め付けていたらなんの思い出にもならないだろう。初めと終わりで考え方に変化があることが「対話」の特徴なのだ。
権威あるものや、革新的なものがすべからく正しいわけではないし、既存の仕組みや構造がすべからく間違いなわけでもない。人間と同じように一長一短あって然るべきだ。僕自身「勉強」が出来る子供ではなかったし、そもそも不登校だったので義務教育の学習ですら理解しているかと聞かれたら怪しい。「勉強」も、また「コミュニケーション」であるべきで、知識は押し付ける為ではなく、むしろ異なる他者を理解する為に活用されるべきものだ。桃太郎から異国の人々への迫害へ思いをはせることも出来る。昔話が実は昔から同じ話ではないことから、歴史認識が強者の立場や時代によって改ざんされていることだって学べる。対話的になることで様々なことが、日常から学び変容する。それこそが「生涯学習」の姿だろう。
話を戻して…現代が失った「コミュニケージョン」とはつまり「対話」のことだ。ものを売り買いする際に交わされるのは会話であって、対話ではないことがほとんどだ。同様に世の中に溢れている多くのものが、会話を交わしただけで相互理解とはほど遠い。
ものの価値をあげよう!と考えるのは誰も同じだ。しかし、困ったことに小泉政権以降日本が経学の柱としているのは「新自由主義」という考え方で、この考え方では「生産性」を重視し、「たくさん作ればどこかで必ず売れる」という仮定で成り立っています。「セイの法則」と呼ばれる仕組みを妄信して、世界は「グローバル社会」へ向かっています。
安くたくさん捨てるほど作り、どこかの国の誰かに買ってもらう。今日の経済成長は、そんなむちゃくちゃな仮説を「正論」だと誤認した、おおくの常識人と凡庸な市民によって支えられていますが、価値をあげよう!という努力の先に「グローバル」が設定されていたら、結局「新自由主義」的にならざるを得ません。ちなみに発表当初この経済論は、まだまともでした。なぜかといえば「道徳」の考えが含まれていたからです。しかし、後に「道徳」を切り離し、経済成長は善い事だ!という偏った、とても強い思想に作り変えることで近代の経済成長はなしとげられた。という側面があります。ここにおいても「対話」は失われ、世界人口の1%の人々が経済的に成長を続け裕福であるために「新自由主義」は採用され続けています。
そうそう、面白い話なのですが、日本が参考にしているアメリカは、リーマンショック以降、「新自由主義」の問題に気が付き、現在では新しい考え方が一般化しつつあります。詳しい説明は省きますが「ケインズ主義」というこれまで否定であった経済論を見直す動きが盛んになっています。しかし、日本は小泉政権以降かわらずグローバル路線を突き進んでいます。いやはや…なんとも凡庸な国です。
僕らは国という他者に対しても「意見」はもっていても「対話」をしよう。とはしてきませんでした。そしてその失われた20年のツケがあちこちで噴出し始めているのが現在です。
旧態依然とした人々は世の中にいまだたくさんいますが、そろそろ限界です。彼らとの対話は困難でしょう。何故なら彼らはいまだ永遠の経済成長という「宝の地図」を握り締めて、ありもしない宝探しを続けているのですから。ぼくら世代に課せられた役割は、彼らが宝を探して掘り進めた大穴を、これまでの感謝と反省を込めて埋めていくことではないでしょうか。真のグローバリズムがあるとすればそれは今、この瞬間に世界に認めてもらおうと努力することではなく、50年100年後に世界が日本は美しいと感じ、日本に来たい、日本で暮らしたいと思ってもらえる「文化」を育てていくことではないでしょうか。
「文化」は作ろうと思って作れるものではありません。どうしたら文化が生まれるか、実は簡単なことです。それは、多くの人が自分の「やるべきことを理解する」ということです。インドは厳しい階級社会ですが、実は幸福度が高い国でもあります。それは宗教の戒律と、生まれ持った仕事が明確だからです。故に多くの庶民は「自分がなにもので、なにを成すべきか…」ということを考える必要がありません。その分の時間を芸術や文化につかうことが出来るのです、これは、日本において様々な文化が花開いたなが安土桃山から戦国時代にかけてなのと同じです。農民は農民、公家は公家、武士は武士の暮らしが明確だったことで生活に余剰が生まれたのです。この事実は「新自由主義」の思考が染み付いた我々が「経済的幸福=人生の幸福」という思い込みをしている内は理解できない感覚かもしれません。
しかし、ながい歴史を紐解けば、現代はかなり異例の状態であることは明白です。
長くなったのでこの辺で筆を置きますが、こうした考え方すべてのベースに「対話的であるか否か」があります。平成ももうすぐ終わります。ずいぶん前に習った昭和の思考はとっくに仕様期限が切れています。これからの時代に即した考えを深めるために、議論ではなく、対話の時間を増やしていきたい。そう思います。
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