十四冊目【生残る建築家像】

【生残る建築家像】

著者 馬場 璋造

出版社 新建築社


建築家には、弁護士が持たなければならない社会正義や、医師の生命に対する倫理観と同質の、公共的側面が付随しているのである。特にデザインはクライアントと建築家と、そして時代と社会が、三分の一ずつ責任を負わなければならない性質のものであると考えるべきである。


雑誌:新建築で、長年編集長を勤められた馬場璋造さんの著書。今の時代を生きる建築家の心得について書かれた本ですが、その他の分野にも通じる言葉がたくさんある名著でした。上記の引用のように、物事は見えている側面だけではなく、周りとの関係性で成り立ってるということを、日ごろから考えて行動することがとても大切なことだと思います。現代はそういった「関係性」が見えずらい社会であるとも思います。

「お金を出せばなんでも買える」ということが、「普通」の社会にぼくらは暮らしていますが、それはけっして遠い昔から続いてきた普通ではなく、「新しい普通」に過ぎません。そして、当然のことですが「普通である」ということが、社会にとって、ぼくら自身にとって「絶対的な正しさ」であるとは限りません。しかし、一度受け入れた「普通」という概念は、驚くほどたやすく人を欺きます。周りの大多数がそれが普通だと言う時、自分の判断が良心に基づく行動か否か、惰性で流されて判断しているのか、正確に判断するのは極めて困難です。

思想家ハンナ・アーレントは「悪とはシステムを無批判に受け入れることである」と主張し「悪の凡庸さ」という言葉で、ファシズムを批判しました。ユダヤ人の大量虐殺という愚行を行ったナチス。その活動を支えた支持者の多くは、所謂「ホワイトカラー」と呼ばれる、小さな商店主や、職人たちからなる下層および中産階級の人々でした。屈強な軍人、差別意識の強い人間、サイコパスのような特異な人々ではなく、「普通の人々がナチを支持し、支えていたのです。」彼らは「自由」であることに疲弊した人々でした。「不自由」な暮らしを強いられていた人々ではありません。自由で公平な社会が「平等」であるとは限りません。ナチスを支持した人々は、「自由」や「平等」に疲れた普通の人々だったのです。すべての不都合なことを「ユダヤ人」のせいにして、自らが優れた血統の種族であることを盲目に信じこむことで、自らを縛る権威に反抗しながら、自らも「優れた種族」として権威的に他者に対して服従を強いました。そして、そのような非人道的なことを行った多くの人々の実像は、我々が思い描くような残忍で屈強な人物ではなく、むしろ間逆の真面目で臆病な人物でした。個人では臆してしまうような残忍な仕打ちでも、命令であれば人は容易く行えてしまいます。イジメと同じ原理です。ナチスにおいても、残忍なことを「お役所仕事的」に淡々と職務をこなす「真面目な役人や軍人」が、大量虐殺を指揮していたのです。


彼らの社会では、極めて分業化されたシステムが作られていました。ユダヤ人を密告する人・彼らを列車に乗せる人・列車を運転する人・毒ガスのスイッチを押す人…これらのことをひとりの人間に指示したら、人はそれを実行することはできません。しかし、工程が極めて細分化されていた為、「私はただ電車を運転しただけだ。それ以外のことは知らされていなかった」そんな言い訳が、我々と同じように「普通」な人々を殺人者にかえていったのです。「悪とはシステムを無批判に受け入れることである」とアーレントが指摘したのはこのようなことでした。


話を戻して、建築というのはおそらく一般庶民が所有するもっとも大きな物体です。それは、同時にもっとも社会という他者と触れあう面積の広い存在であるともいえます。家は家族の生活する「場所」であり、その土地、その社会に生きていくという自らの証明でもあります。近頃の家は窓が小さく四角い箱のような印象です、対して、古くからの家は垣根等で目隠しされていますが、中と外の境界は極めて曖昧です。どちらも一長一短ありますが、家は家主が社会とどのように接していきたいと思っているかを如実に語ります。必要以上のスペックや、それに反発する必要以上の懐古主義もまた、システムを無批判に受け入れることではないでしょうか。万人に受け入れられる「正解」はありません。大切なのは常に「普通」のなかに身をおきながら「普通」を疑い、自分たちにとってなにが必要で不要であるかを問い続けることです。我々は我々の営みが地域や社会からどのような影響を受け、そして社会にどのようなに影響を与えているのかについて、もっともっと慎重に考えなければいけないのではないでしょうか。いかなる優れたシステムであっても、それを無批判に受け入れることは危険が伴うことだと、ぼくはそう思います。

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