変化する社会に対応する生き方。

社会は変化する。


約150年前、日本は江戸から明治へと時代が変わり、人々の生活はがらりと変わりと変わりました。

ある朝起きたら突然未来になっているなんてことはないので、実際には長い移行期があったはずです。 しかし、その移行期を語る物語は少ないです。時代劇と任侠映画が混ざった作品というのを僕は見たことがありません。あるかもしれませんが一般的ではありません。
その移行期に生きた人達の中には新しい時代に適応した人が多くいた反面、江戸の暮らしを変わらず続けた人もいたはずです。これまでと変わらず田畑を耕し育てていた田舎の人々は、ある日町に出ていって驚きます。これまで町にもっていけば売れたものが売れないのです。そして町の人からいわれるのです。〈時代遅れの田舎もの〉と…ただこれまでと同じ暮らしを続けた人がある時を境に【時代遅れ】というレッテルをはられました。
彼らは江戸時代の多数派でしたが、気がついたら明治時代の少数派となっていたのです。

さて、【再生可能エネルギー】【持続可能な生活】【パーマカルチャー】【トランジション・タウン】これらの言葉を日常会話で使うあなた【お金に縛られない生き方】【移住】【グローカル】こういった言葉に惹かれるあなたは現代において【少数派】です。

しかし、もしこの先社会が【永続的で搾取のない、多様性を大切にした豊かなコミュニティで暮らせる社会】にスタンダードな世界になったら…あなたはその暮らしに順応した【多数派】になります。そしてこれまでの多数派は順応できない【時代遅れ】と呼ばれます。マイノリティかマジョリティかということを決めるのはその人の所属する集団によるのです。


そして、僕は自分達の考え方、暮らし方が次の世界のマジョリティになることを確信しています。

これからの時代に対応する知性。

【啐啄同時:そったくどうじ】という禅語をご存知ですか?【啐】とは雛鳥が生まれ出ようと殻の内側からつつく時の音、そして【啄】とは親鳥がその音に気がつき外から殻をつつき割ることを意味します。啐啄が同時であって始めて殻は割れて雛鳥は生まれることができます。

これは師弟の関係を説いた言葉で、師とは弟子がまさに殻を破り悟りの境地を得んとせんその刹那にすっと手を差し伸べ導くものである、という意味です。師が弟子を観察しきちんと見守ることの重要性を説いています。あれこれ教えすぎても、任せすぎていてその一瞬を見逃しても、弟子を悟りの境地へ引き上げることはできないのです。

この言葉が示唆することはたいへん多く、様々なシーンで僕はこの禅語を思い出すのですが、これは【地方創生】や【社会改革】にもあてはまると思います。

つまり、個人の最小単位のコミュニティからのアクションと、社会システム全体を変えようとする社会企業家や政治的アクションが、【啐啄同時】になった瞬間に我々を取り巻く社会はおおきく転換をむかえるのではないかと思うのです。

アクションは内側からと外側のいずれが強くても弱くてもいけない。【啐啄同時】となる、その瞬間を常に意識し続けなければ、時代の転換期に乗り遅れることになります。


では、その瞬間をどうすれば見逃さず受け入れることができるのか。そのことを考えた時にキーワードとなるのが、民俗学者の折口信夫が提唱したふたつの知性ではないかと考えました。


【別化性能】と【類化性能】

折口信夫は民俗学者・柳田國男の高弟として日本の民俗学の基礎を築いた人物です。折口の成し遂げた研究はその特異性から「折口学」と総称されました。哲学者の中沢新一は著書のなかで折口の民俗学を【細部研究/豊かな想像力/冷徹な論理、この三者の間をしなやかに往来する思考】と称しています。

そんな折口は人類の知性には【別化性能】と【類化性能】の二つがあると提唱しました。


【別化性能】とは、AとBというふたつの物事がいかに異なるかを自身の知りうる情報の中から引き出し、違いを証明する知性で、産業革命後の近代社会が発展する原動力となった分別する力です。この知性の発達によって人類は科学的進化を実現しました。

対する【類化性能】とは、一見すると無関係なAとBの間に共通する法則を見出す知性です。この知性で物事を見ることで、例えば【月と女性】は、どちらも満ち欠けを繰り返すもので同じものと捉えられ。大地を女性と同一視することで【男性の象徴】を模した巨石や巨棒を大地に立てることで、女性である大地に感謝を捧げる神事を創造しました。これはほんの一例ですが、昔から伝わる神事や伝承の中には縄文の昔から現代まで脈々と続いてきた【類化性能】では説明できるが【別化性能】ではまったく説明の出来ない【象徴】を駆使した思考の名残りがあります。

この知性で古代人は世界を象徴の集合体として捉え、外に広がる世界や宇宙そのものと人間の間にあるすべて消し去り、宇宙そのものと一体になれる壮大な思考を作り出しましたが、現代の我々はこの知性を持たないので、ほとんどの物事は理解に苦しむ奇妙で不可思議な考え方としてしか捉えることが出来ませんが、この知性がある故に人間は自然と調和した暮らしを実現していたともいえます。

しかも面白いことに現代でも、【動物とむりやり結婚させられて、容姿ではない内面の美しさを知り、愛を込めてキスをしたら王子様になって幸せになりました】といった【異類婚】がテーマの物語が数多く存在しています。

ここでいう【動物】とは【人以外の世界そのもの】を象徴していて、【人間があるがままの世界を受け入れたら〈もしくは世界の側から受け入れてもらえたら〉人は幸福になれる】という意味を持ちます。

このように【類化性能】で、ものごとを捉えなくなった現在でもこのような残る物語が語り継がれる背景には、人間は本質的には【類化性能】でものごとを捉えることで幸福になれるということを知っているということになります。
日本でこの【異類婚】と象徴を駆使して作られ【神話的構造】を持った物語がたくさんありますが、現代人に馴染みがあって、もっとも分かりやすいのは宮崎駿の【もののけ姫】ではないかと思います。長くなるのでこの話はまた違う時に…

さて、社会が成熟しそのシステムが安定していた近代においては、善悪や正誤についてのルールや規則が決まっているので、もののけ姫のような混乱の中で自身の曇りなき眼で見定める必要はありません。

学校教育で暗記してきた知識の中からすばやく正しい情報を引き出すことが出来れば、余計なことは考えなくても合理的にAとBの違いは簡単に説明できます。それ故、この知性の活躍するの官僚・マスコミ・公務員・銀行員といった職種になります。

しかし【別化性能】には落とし穴があります。上記の職種をみても分かるとおり、判断の基準が経験や感覚ではなく自身の学んできた知識に限定される為、状況に応じた柔軟な対処をする能力は弱くなり、自身が学んでいないことや、社会そのものの変化、知らないことを受け入れない排他的な思考に陥りやすいのです。

結果として、この知性の行き着く先には【知ってることだけを淡々と機械的にこなすことに精通した】受身の姿勢の人間が形成される可能性があるのです。


対して【類化性能】がもたらす知性は常に他との繋がりの中から自己の姿を導き出そう働くので、だんだん自他の区別が曖昧になっていきます。鏡に笑いかけると鏡の中の自分が笑い返してくれるように【自分以外の世界は自身の鏡】として機能し始めます。そうなるとすべては【ギフト】【学び】【教え】ということになります。このように【類化性能】がもたらす知性は、自分以外のすべてと【同化】する力で無限に広がる可能性を持っているのです。

安心とはなんだろう。

人間が心から休まる瞬間とはどんな時なのでしょう?それは自分が誰かにとって【余人にもって代えがたい存在】になることです。
これは全世界いつの時代でも共通の人間の持つ欲求であると思います。【別化性能】においては社会システムに認められることに【余人にもって代えがたい存在】の自分を見出します。どれだけ家で妻や子供に嫌われていても、自分は会社では頼りにされている。ということが自身の存在の裏付けになります。
しかし、そうして社会から認められた【余人にもって代えがたい存在】が社会の変化の時などにいかに脆弱かということは、説明しなくても現実社会に眼を向ければ容易にわかることだと思います。

【別化性能】とは、どこまでも自己と他を区別して分けてゆき、独りでも生きられる。という虚無の孤独な存在を作り出します。千と千尋の【カオナシ】のような【影そのもの】といった存在です。

対して【類化性能】の知性による【余人にもって代えがたい存在】とは、自己とその外側のすべてを【同化】させることで、【宇宙と一体の自分】というような思考を無限に拡張し続けることが出来ます。

この知性には終わりも始まりもなく宇宙がいまも膨張し続けるように無限の繋がりを見出していきます。あらゆる物事に自己との繋がりをもてる【類化性能】の先には慈悲と破壊をもたらす【自然】そのものような存在。分かりやすく言えば【ナウシカ】のような存在になるのではないでしょうか。

宇宙というとおおきな存在すぎてぴんとこないかもしれませんが、私達自身も宇宙そのものを構成するパーツの一部に過ぎません。南方熊楠は粘菌の研究の果てに壮大な宇宙観【曼荼羅】の世界を見出しました。童謡作家の金子みすゞはちいさな命のなかに宇宙へと繋がる道を示しました。

『蜂と神様』

蜂は お花の中に
お花は お庭の中に 
お庭は 土塀の中に 
土塀は 町の中に


町は 日本の中に 


日本は 世界の中に 


世界は 神様の中に




そうして そうして 神様は

小さな 蜂の中に。

【類化性能】の知性は蜂の中に神様を見ることともいえます。取るに足らないちっぽけな自分自身も世界の一部として認められていることに安心を得ます。
【余人にもって代えがたい存在】とは特別な自分として誰かに認められようと努力することではなく、すでに自分は世界にたったひとりの自分として存在していて、すでにそれだけで世界にとって【余人にもって代えがたい存在】であることを知ることなのです。

そして、世界でひとりしかいない自分を認めてくれる世界に感謝をして他者と関わる時、人は真の【思いやり】の心を得ることで安心を与えることが出来るのです。

学ぶということ。

では【別化性能】【類化性能】の話がどうして変化する社会に対応する生き方を考える為に役立つのでしょう?現代社会の仕組みは【別化性能】的な仕組みで構築されていることを上記で書きました。そして【地域創生】や【社会改革】の多くが、現在この【別化性能】の仕組みを使い、解決する方法を模索しています。アルベルト・アインシュタインは、こう述べています。

いかなる問題も、それをつくりだした同じ意識によって解決することはできません。

この言葉の意味を今一度問い直さなければいけないのではないでしょうか。そして、これからの時代は【求める時代】から【放棄する時代】へと進んでいきます。【足らざるに足るを知る時代】ともいえるかもしれません。

そんな時代をささえる知性は別化でも類化でもない過去を踏まえた第三の知性となるでしょう。なぜなら人間は一度手にした便利さを良くも悪くもけして捨てられない生き物なのです。

人間が地球に住み続けるためには、【物理的にものや人が減る時代】へとこのまま進むのか、人間の良心が道を改める決意をして【自ら減らす時代】へと向かうかの二択しかないのです。

そして【自ら減らす時代】の指針となるのが【類化性能】の知性なのではないでしょか。なぜなら【自ら減らす時代】とは、未来に起こりうる未曾有の時代に対して全人類が団結して転換をするという【おもいやり】の連鎖でしか到達し得ない未来なのですから。

アインシュタインは、こうも述べています。

学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。
自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる。

これからの時代に必要なことはこのような姿勢の学びなのではなでしょうか。

過去は変えられませんが未来は作っていくことが出来ます。
過去を過ちは悔み怖れるのではなく【鎮魂】して護ってもらうのです。もう二度と同じ過ちを繰り返さない為に、我々が忘れないために…

我々はこの歪んでしまった世界の理を、もののけ姫のアシタカとサンのように人間の手で自然へ還していかなければなりません。

遠い昔、日本は自然を奪う社会から自ら抜け出し、現在のように多様性を認めあい自然と共生する時代へ変わりました。縄文の昔から日本人のなかに脈々とながれてきた【おもいやり】の心が今では世界のスタンダードとなっています。

…SFではなく未来に生きる人たちがそういって現代のことを語る日が来ることを願って。


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