クロックムッシュ
持ち帰れるのは、美味しい味ではなくて、嬉しかった気持ちの方だ。
美味しいは嬉しい。サクッとした歯応えで、今まさに焼き上がったことがわかる。
一番美味しい瞬間に運ばれてきたことがわかる。美味しいは嬉しい。
気取らない味と気取らないBGM、気取らないマスターの声のせいか、外での喧騒を忘れ、まるで自宅から歩いて通ってきたかのような錯覚に陥る。「‥最後の一個がなくなる前に言ってくださいよ。」奥から出てきたスタッフにマスターが叱られている。「おっかしいなぁ‥」といいながらコーヒーを入れるマスターの横顔は、とぼけたように穏やかだ。
顔をあげて窓の外を見ると、そこは確かに知らない街なのに、今この瞬間だけは時間も空間も飛び越えて、在りし日の‥あるいは在りし日だと僕らが信じているかつての豊かな時代と、確かな文脈で繋がっていることを、ひしひしと感じられた。今日の出会いが嬉しかったので、クロックムッシュを一つ注文をしてお土産に包んでもらった。丁寧に温め方を説明してくれたお姉さんは、最後に「けど‥お好きなように召し上がってくださいね。」そう言って可愛らしさ袋を手渡してくれた。その言い方がなんともちゃめっ気たっぷりだったので、美味しいはますます嬉しいになった。あの瞬間香った温もりは、クロックムッシュの温かさだったのだろうか?それだけではないように思えた。
外に出て店の外観を撮った。ファインダーを覗くことに気を取られ路地の真ん中に置き去りにしてしまった僕のキャリーケースを、邪魔にならないようにと、連れ合いの若い友人がそっと路地の脇に避けてくれるのが視界に入った。彼女は心から信用できる子だな。そう感じた。いい環境で学んでいることが端々の所作から伝わってきた。大丈夫きっと全部うまくいくよ。そう言いかけて野暮だなと言葉を飲んで、僕らは駅まで歩き出した。
余計なことを考えて押したシャッターはピントがボケボケで、でもそれがいまの自分らしいなと思った。
歩きながら、彼や彼女が生きやすい世の中を遺すために、他でもない僕自身が幸せを続けなければしなければいけないと思った。それは、いたずらに求めることではなくて、与えられたことを幸せだと感じる心を育てることだなと、そう思った。
「私は本屋とか色々回っていくのでここで失礼します!」改札の前で、そう告げた同郷の彼女に、いつものように握手をしようとポケットから手を出しかけたが、こんなご時世だからな・・と思い、再びポケットにしまった。行き場のない右手を隠したまま改札を抜け、ホームに続く短い階段を登った。
振りかえると身長に不釣り合いな大きなリュックを背負った小柄な彼女はすでにおらず、なんだかそれがとても彼女らしくて、マスクの中で少し微笑んで、帰り道を急いだ。
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