弱い社会の必要。

 数字は嘘をつかないけれど、集め方や見せ方で誤りを誘うことができてしまう。化学や数学は、けっして万能ではない。
それは、それを扱う我々人間が万能ではなく、常にうっかり間違う生き物だからだ。
正しい行いを理解しているからといって、常にその通りに行動できる訳ではないように、数字は真実かも知れないけれど、それを扱う我々が合理的かつ機械的に処理をできなければ乱数が混じる。そして、そんなことは人間には無理なことだ。

 例えるならそれは伝言ゲームのようなもので、どれだけ正確に相手に伝えようと尽くしても、ほんの少しだけねじれて伝わってしまう、人はいつもそれを悲しんだり、できる限り正しく伝えたいと願うけれど、そのねじれがあるからこそ恋が生まれたり無常の恩恵を感じたり出来ることもひとつの事実だ。
大抵の場合、何かの始まりなんて勘違いや妄想だ。整頓された合理的な世界には嬉しい偶然は生まれない。それはとても寂しいことだと思う。

 大きな災厄の時代に立って多くの人が、「間違わない」システムや関係を探している。日々最新の「強い仕組み」や「正確な情報」を求めて、ネット上には様々な情報が行き交う。しかし「正しさ」とは絶対的なものではない、常に相対的なものだ。だから、これを信じてさえいれば間違えない!というものは残念ながら存在しない。

あるとすれば利己的で間違うこともある自分自身の弱さや揺らぎに身を委ね、それによって相対的に生じる周囲との軋轢や協調性の問題について真正面から時間をかけて向き合うことだけだろう

人という生き物は、他者や社会という相対的なものとの関係性の中でしか生きられない。だとしたら、参考になるのは最新の科学ではなく、長い時間培われてきた自然と人との「共生のモデル」のなかにあると思う。

 森や山や川や海は遠くから見たらとても整然と整って見えるが、近づいてみると多種多様な生命が環境と折り重なるように混然一体となって存在している。

それは、遠くから見たらひと塊りで、近づけば近づくほどバラバラになって行くが、さらに近づいていくと再び一体となって自他の境界が曖昧になっていく、全てのものの外側の薄い膜が混じり合い、理路整然と分けられない部分に、独特の深みや味わいが産まれていく。
そして人はそれに安らぎを感じる。精緻に厳格に整った場所にはけっして宿らない偶然性に内に必然的な何かを見いだすことで人は「ここにいてもいい。」ということを感じる事が出来ると思う。

数万年前から変化する環境に適応し、変化を続け今も存在し続けている自然という持続可能モデルからはおおらかさと厳しさを感じられる。
今後求められる強い仕組みというものも、硬く揺るがないものではなく、木の根のようにしなやかで粘り強い強さだろう。

腐らず劣化しないものが「強い」わけではない。時間をかけて「育つもの」こそ「緩やかに変化していくもの」こそが、けっして目立ちはしないがとても大切なものなのだ。


 そのために僕らは、守るべきもの(そう誤認してしまっている多くのもの)をひとつづつ丁寧に捨てて丁重に埋葬していかなければならない。
コンクリートを剥がし、自ずから然る自然に身を委ねないといけない。幸い、そのための手順は先人達が遺してくれている。
社を建て鎮守の森を作り祭りを執り行うこともそのひとつだ。

「これまで大変お世話になりました。ここに社(居場所)をお造りしましたので、どうぞこちらでお休みください。欠かさず供物を捧げ祭りを執り行います(感謝の気持ちを忘れません)ので、どうぞ安らかにお眠りください」

そのような慰霊と鎮魂の作法は、何も神仏にだけ通づる作法ではない、神や仏が喜ぶであろうと執り行われる儀礼は、すなわち我々が自分が施されて嬉しいと感じる行為だ。
怖れを感じるほど疎ましい他者に対しては、力で排斥するのではなく、感謝で退いてもらう事が求められるのだ。

それは一見回りくどい手順だが、怒りや恨みで追い出せが遺恨が残り、その遺恨はそのままブーメランでやがて自分に戻ってきてしまう。
必要なのはそのような作法ではなく、そこにそのままいてもらいつつ、そこではないどこか異なる場所へとその存在を「ズラす作法」だ。
時代にそぐわなくなってしまった者達は、同時に時代の礎を築いた人々でもある、彼らを存外に扱うことは、今自分のたっている地盤を存外に扱うことと同じだ。
そして、そのような行いはやがて自分に還ってくる。なぜなら、僕らもまた数十年後(あるいは数年後)には後進たちにとっての害悪となり、成長を妨げる蓋となり、彼らに席を譲らなければいけない存在に確実になるからだ。

ただ、心配しなくてもいい。それは何も我々だけが不当に押し付けられた義務ではない。時代の変わり目、幕末期も明治期も戦後もバブル後にも震災の後にも、等しく訪れてきた通過儀礼(イニシエーション)だ。
我々は永遠の成長を盲信して走ることより、有限な生命を慈しんで育むべきだ。そのためには遺恨や負債となるものは出来るだけ丁寧に処理した方がいい。

田畑や林業や水産がそうであるように、今年の恵みは昨年までの結果と天の恵みであり、来年の成果は今年の準備と天の恵みの賜物だ。
そして、どれだけ真面目に尽くしても不作が訪れる事がある、だから人は見えない存在に願ってきた。
現代人は「幸福」を大切にするが、本来、幸せとは「幸運」であった。半分は運なのだ。そして、その運が自分の味方をしてくれるように神や仏や先祖という目には見えないものに祈ってきたのだ。

彼らは何をしてくれるわけでもない。だけど、祈ること、敬う事で心穏やかに過ごせるのであれば、それは見えずとも意味のある存在だ。見えなくても理解できなくても大切にする。
それは生きている他者に感じるものと相違のないものだ。家族の言葉を信頼できるように、親友や恩師の言葉に安心を感じるように、人は培ってきた経験というモノサシにおいてのみ、安心や幸福を測る事が出来る。そこに「正しさ」や「科学的安心」は多くの場合介在しない。

 さて、自然の有様や、過去の営みから学べることは多いのだが、その中でも今日とりわけ大切にしたいものが「中間領域」の存在だと思う。

現代人のイメージでは旧来の村社会のようなコミュニティは親密さゆえに息苦しい関係性であったように考える人が多い(もちろんそのような側面も少なからずある)が、今日と大きく異なるのは生産の主体が農作物のように自然の恵みを享受してそれを増やす、あるいは加工するという「幸運」的な幸せが主であった事だ。
現代のように生産効率の上昇や、あるいは個々人の性能によって結果が大きく変わる事が少なく、機械化による労働以前は出来高=労働力であった為、必然的に出来る人も出来ない人も必要とされる人足であり得た。

実際、現代においても村社会の付き合いには「必要最低限の人足を集める。」という発想はない、たとえ軽作業でも全員が集まり労働を担う。という仕組みが今も生きている。作業に対して人が余ろうとも作業に対して人が足りなくても全員が分担して負担する仕組みが今の続いていて、非効率ではあるが同時に「お互い様」という感情が自然とうまれている。

僕はこれを「程よい同調圧」と呼んでいる。例えば事情があって草刈りに出れなくても、他の人が少し負担をすれば解決出来る程度のミッションなので、小言な言われても激怒するほどの問題には発展しない。これが適正サイズの人数に調整されていたら一人抜けただけで非難が出るだろう。

共同体の仕組みは飛び抜けたヒーローを作らない代わりに飛び向けた落ちこぼれも作らない。そレは、加圧トレーニングのようなもので、知らず知らずのうちに人間の基礎代謝や免疫を高めていくことに繋がっている。もちろんいい事ばかりではないが、村社会が育んできた程よい距離感と仕組みが今後のコミュニティ形成に欠かせない要素だと思う。

「中間領域」とは、いわば膜のようなもので、全員が薄い膜で身を覆っているような状態だ。全体が想像する(察する)事で、個々人のパーソナルな個の領域に踏み込まない事で、全体が互いにもたれかかるように立脚していく事が出来る。
現代は個々の自由が尊重されると同時に、全ての言動行動に責任が生じ、それを擁護してくる帰属出来るコミュニティや、失敗を忘れ去られる権利が消失しようとしている。
お互いがお互いの「弱さを尊重しあえるだけの適正な距離」フィジカルな距離だけではなく、精神的な距離も含め、許しがたい問題に対して「仕方がない事だ」と一度冷静になれるだけの時間的空間的距離を取れるだけの「緩衝材」としての領域=中間領域(バッファーゾーン)が必要なのだ。

それは、「伝言ゲーム的な社会」とも呼んでもいいかもしれない。

最速で正解を正確に届けるのではなく、情報・意識・想いの伝達に時間をかけ、またその変化を慈しみ、そこに発生した齟齬を少しづつ解くような所作こそが、本来の意味での対話だと思う。時間がかかる事、うまく伝わない事、その過程で自分でも想像しなかったようなものへ変容する事、それを通して本体の問題に気がつく事が求めれられている。

理路整然として間違わない社会に我々の居場所はあるだろうか?自分の意見を通すということは、同時に誰かの意見を受け入れるということだ。
しかし、それが出来ない時はそんな自分の弱さをも認めることが求められる。それは同時に誰かの弱さを認めることに繋がるからだ。

それぞれが弱さを自覚し、相手の弱さを知覚出来る社会こそが、真に持続可能な社会と呼べるだろう。その社会は決して派手でかっこいいものではない、泥臭く回りくどく効率的でなく真似をする事が容易ではないだろう。
だからこそ、次第に速度をあげてゆく時代に対して、「反発的文化=カウンターカルチャー」ではなく「半分的文化=ハーフカルチャー」として、自他の問題を同時に考え、問題を他者に求めず、他人に対して優しい、そのような社会が立ち現れてくるのだと、希望を込めてそう思う。

伝言ゲームを楽しめるくらいの気持ち的、時間的余裕がある社会でいいじゃないか。困難な時代の最中にたって心からそう思う。

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