体系と構造。その4(お終い)

僕らは、均一なブロックのように個々が均一に孤立することを「自立」であると教育されてきた。そして、社会とはそれらが集まって作られていると教えられてきた。しかし、それらが集まった集団も決して強いものではなく、弱いことを大人達の背中を見ていて気がついてしまった。

社会に出た瞬間求められる個性や、自発的な行動というのは、自身が規格品のブロックであることを自覚して、それらの組み合わせで見たこともないシステムを作ることを指している。けして、ブロックであることから逸脱することは求められていないのだ。

繰り返しになるが体系とは、個々別々の認識を一定の原理に従って論理的に組織した知識の全体です。つまり一定の原理が正しく設定されていて、かつ個々の認識がその原理に準じている場合、体系はきちんと機能しますが、その原理が破綻して、論理的な流れが断ち切られてしまうと途端に弱いものになってしまうのです。


そうして、ブロックであることに疲れ、あるいはブロックになりきれなかった人々は、失われてしまった構造的な共同体を求めました。新しい共同体として市民の願望を一番わかりやすく体現するのはいつの時代も大衆娯楽です。映画や漫画の題材として多く取り上げられるものが、そうなりたいという願望ということです。

それは、昭和においては任侠で、平成においてはヤンキーだった。今もアウトローな生き様には一定の支持があるが、それは何も現代に限ったことではなく、学生運動も新興宗教も会社組織もすべて、時代と共に失われた共同体の変わりとなるコミュニティーだった。

かつての反社会的な組織は「絆」や「契り」という構造に支えられた情に厚い人間味のある姿で描かれてきた。西洋の勧善懲悪とは異なり、日本のそれは弱いものを救う暖かなものとして描かれてきた。


村社会や血縁の家族という共同体を解体することで経済化を果たしてきた日本人は、ひとつまたひとつとそれらを潰すことで、公平で開かれた市場を生み出し、経済を成長させてきた。しかし、それは、同時に自分たちの心の逃げ場となる場所も潰すことだった。

僕らの暮らす社会は、村社会を壊し、渡世人の生き方を壊し、信仰深い人々の生き方を壊して、その受け皿として用意した「階級社会」会社で一生を終えられる仕組み「終身雇用」までも壊そうとしている。

すでにあるものを壊したり、機会をフェアにすることで、競わせて成長してきた僕らの国は、それをやりすぎた末に、自由なのにがんじがらめで身動きがとれないと言う、今日のように姿になってしまった。


そして、大人の言うことを聞くことがいいことだと教育をしてきたのに、それすら壊して個人個人に働き甲斐や社会貢献を見つけることを求め始めている。こうしてモデルケースを集めて、いずれはそれを大企業や国主導で行うというのだろう。

しかし、これは根本的に間違っている。


本来、「私と公共」は、その間を相互的に行き来することで毛糸を編むように作り出していくものだ。自分が中心となって働きかけることで突然産まれるものではない。なぜかと言えば、公共とは「公と共同体」からなるものだからだ。

人はこれまで、私と言う個人が、共同体を通じて、公と関わってきた。そして、その過程に「やり甲斐」や「社会貢献」が存在していた。

そのバランスが崩れたり、個人に余るほどの大きさになることで社会の仕組みは歪なものになる。パターンは以下の3つだ。

1・私と公だけで、共同体を必要としない社会

2・私と共同体だけで、公を必要としない社会

3・公と共同体だけで、私を必要としない社会

どれもが異質なバランスで、永続的とはなり難い。

1は独裁を生み出す。

2は閉じた排他的な集団を生み出す。

3は現代の会社的社会。

三つはバランスが大切で、それバランスが崩れると、どのパターンでも独善的な仕組みが生み出されてしまいます。


このような公共と個のバランスが大切だということを、日本人はずっと昔から大切にすることで、構造的な社会はそのバランスが整っていました。

例えばこんな言葉があります。

「商売において売り手と買い手が満足するのは当然のこと、社会に貢献できてこそよい商売といえる」

これは近江商人の大切にした考え方で「三方よし」と言われています。

「売り手によし、買い手によし、世間によし」は、「私によし、共同体によし、公によし」と同じ意味合いです。


現在では、買い手と言うのは文字通り世界中にいる見えない相手を指しますが、江戸期の日本においての買い手はもっと身近なところを指していたことでしょう。遠くで物を売るとしても、仲買人は近しい存在であったでしょうし、荷を担ぐ人も運ぶ人も、今より近しい存在だったことでしょう。

だからこそ、私に良しは、買い手に良しで、ひいては世間によし。それを意識できていたのでしょう。それは社会というものが今日のような広大な範囲を指すものではなく、目に見え手に届く範囲と、その他に分けられていたからです。


そうなると、社会というものが地球環境問題にまで広域になってしまった現代において、どのようにして、社会という大きすぎる物事を目に見え手に届く範囲の事として捉えるか。それが問われる事になります。

その時に、個人が共同体を通して公を知る。というプロセスが求められるのでしょう。

この問いに万人に通用する答えはありません。


それぞれが、それぞれの共同体を通して、それぞれの思う公を意識することしか道はないのだと思います。その時に、過去の営みがなんらかのヒントになることでしょう。

それは構造でも、伝統でも文化でも、今風に言えばサスティナブルでもソーシャルでも、どんな言葉でも構いませんが、未だ来ない未来を知るためには、これまで来た道から学ぶことが求められているように思います。


・あとがき。

今回は「体系」と「構造」と言うワードを通して、今日の社会について考えてきました。この二つのワードは文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが著書「構造・神話・労働:みすず書房」の中で述べた言葉です。数年前に読んだ時からひっかかっていたこの二つのワードを思い出したのは、先日友人に勧められたクルミドコーヒーの影山知明さんの「続・ゆっくり、いそげ:クルミド出版」の中でレヴィ=ストロースの言葉の引用があったからです。読了後感じたこと、最近考えていたことをまとめたのが今回の文書になります。


「構造・神話・労働」は、レヴィ=ストロースの講演集です。その中で体系と構造の違いを「変形」と言う言葉を使いこう説明しています。


「変形」と言う概念を用いることで、「構造」と呼ばれるものと「体系」と呼ばれるものの違いが理解できるように思います。と言うのは、体系も(構造と同じく)やはり要素と要素間の関係とからなる全体と定義できるのですが、体系には変形がかのうではない。体系に力が加わるとばらばらになり崩壊してしまう。これに対し、構造の特性は、その均衡状態になんらかの変化が加わった場合に、変形されて別の体系になる。そのような体系であることなのです。


構造と体系はどちらも同じ「要素と要素の関係とからなる全体」ですが、体系は人の手が加わることで用意に壊れるのに対して、構造は変形して別の体系となる。そうレヴィ=ストロースは述べています。つまり構造的なものが変形して体系となり、体系は変形することなく力が加われば壊れてしまうと言うことです。すなわち僕らが暮らす現代の歪な体系的な社会は、かつては構造的であったものが変形して体系的なものになったと言うことです。

そして、体系的なものは変形できないのだとすると、今日の仕組みは一度壊して、新たに構造的な仕組みを産み出す必要があると言うことになります。

僕はそれを焼畑農法のようだなと感じました。焼畑農法は、作物を作ることで痩せてしまった土地で、植えられた作物や木々を一度焼いてその灰を肥料として、数年間土地を寝かしたのちに作付けを行う農法です。

今あるものが焼くことで肥料になるかは分かりませんが、歪な今日の社会をそのまま成長させるのは難しいでしょう。それならば、焼畑を行いしばらくの間見守ることもまた必要なことかもしれません。



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