体系と構造。その2
近代の会社組織は、戦後のバラバラになったものから使える部分を拾い集めて、欧米から学んだことを混ぜ「体系」として整えることで作られてきました。
たいして、旧来の村社会の仕組みは長い時間をかけて「構造」となっていったものです。体系と構造は似ているようでかなり性質が異なります。
辞書によると体系とは・・
⑴個々別々の認識を一定の原理に従って論理的に組織した知識の全体。⑵個々の部分が相互に連関して全体としてまとまった機能を果たす組織体。とあります。
そして構造は・・
物事を成り立たせている各要素の機能的な関連。また、そのようにして成り立っているものの全体。とあります。
その違いを簡単に述べるなら、体系は、決められた形のブロックを積みあげたものです。組み換えることで様々な形を作ることが出来て、コピーが容易いので広がりやすく、経年劣化の際は新しいブロックに積み替えられます。
たいして、構造は、木々が寄り集まって出来る森林のようなものです。土地土地の条件に合わせて構築されており、粘り強く耐えることが可能な反面、再生には時間がかかり、コピーが難しいです。
体系も構造も、全体のバランスをとる為にあるものですが、体系は個々が一定の原理に従うことでまとまった全体を作るのに対して、構造は各要素の機能的な関連が、自ずから全体を成り立たせる。ということで、遠くからパッと見た感じでは同じように見えても、その意味合いは大きく異なるものなのです。
戦後、焼け野原となった東京で、戦争のない平和な時代を体験したことのなかった大人達が必死になって作ったのが今の日本の骨組みです。基本的には日本はこれからどんどん豊かになるという前提の上に成り立っています。目標は常に大きいものです、当たり前のことですよね。
しかし、作られた仕組みは、そもそもが大きすぎる理想で、しかも時代を追うごとにどんどん大きくなっていき、それに比例して大きな動力を必要とする仕組みに育っていきました。
本来であれば都度立ち止まって不必要な枝を落とすことが必要だったはずです。どれだけ大きな森であっても一度人が手を加えてしまえば間引きをしなければいけなくなります。しかしこれまでの日本人は個々が手にしたものを手放すまいと必死になって守るあまり、ただただ鬱蒼と茂るばかりの森になってしまいました。そこにはもう若葉が育てるような土壌も光が射す場所もないのです。
そして、その生い立ちが体系的である以上、自分自身も、体系的に入れ替えられ可能のブロックのひとつに過ぎません。その判断基準は極めてドライなもので、それは体系が効率的に考えられていることの裏返しであり、それ故に画期的なことを素早く行うことが出来ますが、弊害が出てきます。
才智に溢れる人々でのみ構成された新しい組織は、自分自身も若く健康な時はいいですが、歳を重ね、自身がそういう存在でなくなった後はうまく考えられていません。
体系的な基盤は常に強者によって作られ、強者が生きやすいように運用されますが、構造的な基盤は寄り集まった弱者によって作られます。それ故、構造的な仕組みは経済が成長しているような上向きの時には足かせになり、逆に現代のように国や会社やコミュニティーが不安定な時代になると必要とされるようになります。
体系的な組織は解体が容易で、すげ替え可能でコピーが容易い為、そこに自由競争が産まれて、経済成長を産んできました。そして、僕らはその豊かさの上で生活をしています。
でも、僕らはそれに疲れてしまったのです。
その世界で暮らし続ける以上、いつまでもすげ替えられるかもしれないことに怯え、真似されることに怯えなければいけないのですから。
その3に続く。
0コメント