最近考えていること。(加筆修正版)
・本当は努力と結果が比例していない社会
例え話ですが「お前の為だなんだよ!」といつも熱く語って、色々と付き合ってくれる先輩がいたとします。(あくまでいたとする話ですよ)いつも情熱的な彼のSNSには、地域の財界人や有名人との写真がアップされ、休日には地元の仲間とのBBQや結婚式の写真がアップされる。彼は誰からみても輝いていて、非常に充実していて楽しそう。
だけど、僕は、もしかしたら僕だけなのかもしれないけれど、正直なところ、ずっとそのような姿を見せられたら心が疲れてしまう。。
彼がことあるごとに口にする「努力をすれば夢が叶う!」という力ある言葉は、僕の耳にはまったく裏返しの「だから、お前は”努力が足りないから”夢が”叶わない”のだ」という”呪いの言葉”としてしか聴こえてこない。もちろん彼がそんなつもりではないのは重々承知のうえだけれども、近頃、どうもそうとしか思えないモヤモヤを抱えてしまっている。
日本はこれまでいわゆる”体育会系”的な”努力と忍耐の精神”で経済成長を推し進めてきたところがある、それは一つのだろうし、けして間違いではないけれど、あくまで一つの正解例に過ぎなかった。ということを今あえて考えなければいけないタイミングに立っているように思う。今の時代において、これまでの「常識」を「これからも間違ない理論だ」と論じるにあたって、その論の説得力が相当薄くなってきているからだ。
体育会系のノリにおいて上に立つ人間には常に”権威的な姿”で振舞うことを”構造的”に要求される。成功者と言うのは、いわゆる”社長さん”のイメージで、いつも偉そうに踏ん反り返っていて、ゴルフの話と接待の話をいつもしていて、豪華な自宅には実は自分の居場所がなく、キャバクラで豪遊・・・そして、そんな姿を見て、そんな社長以下上司と働く内に「あんなお飾り社長より自分の方が仕事が出来る、俺もいつか成り上がってやる」と、なるわけですが、そこで重要になるのが、そういった上司や社長のことを、ある種の”反面教師的”に捉えて、反骨したりしていた人が、なぜか上司と同じ立場に立った時には、嫌っていた彼らと同じように振る舞い始める。そんなことがしばしば起こることです。
それは、革命のそれに似ています。市民の期待を一身に背負って革命を成し遂げた英雄が、数年で権力に飲まれ、腐敗し、同じように討ち滅ぼされる。そんな話は世界中で事欠きません。なぜそうなるかと言えば、”それ以外の成功のモデルを知らない”からです。あるいはもっと分かりやすく例えるなら、部活動で考えてもらえたらいいかもしれません。皆さんは、先輩に嫌なところを見てきたはずなのに、いざ自分が上級生になったら、無意識に同じように下級生に対して振舞ってしまった経験がありませんか?自分は自分の頭で考えている。そう思っていても実は知らず知らずのうちに”構造”の影響を受けているのが人間です。そもそも生きていく為には複数のアカウントを使い分ける必要があります。家族と話す時と仕事で話す時は人格を切り替えます。先輩と話すのと後輩と話すのでは全く違った態度を要求されます。しかも、実際はもっと複雑に、社長の前で先輩として後輩に接する。とか、家族の前で社長と接する。とかいう複雑なペルソナを使い分けるのが”人間社会”のコミュニティです。そして、多くの場合それは、これまで培ってきた経験則に乗っ取って現れます。虐待を受けた子供が自分も同じように振舞ってしまうのは、その人の心が悪いのからではなく、”それしか模範を知らない”という単純な点に尽きるのです。
コミュニティの内側で、自分もその構造の一部となっている時に、踏ん反り返る裸の王様に対して「お前は裸の王様だ!」と指をさすのは決して賢明な対応ではありません、組織の中にいると「あんな姿勢ではダメだ、もっと社員を大切にしなくては会社が持たない。。」みたいなごくごく真っ当な善意は、構造の中で黙殺されます。繰り返しになりますがそれは、学生時代の部活動において「こうしたら効率がいいのに‥」「3年になったら1年には優しくしよう」と、本気で考えていたのに、いざ自分の番が来たら先輩と同じような振る舞いをしてしまう。それと同じ原理です。
損得勘定が支配する合理的な社会において、そこに属する人間は、本能的に”損”をしたくないので、悪い慣習は惰性的に受け継がれていきます。しかも、その姿勢は小学生の頃から叩き込まれた体育会系の思考から生まれるものです。上官からの命令であれば人さえ躊躇わずに殺す。そういう戦時中の教育と現代の教育、実はベースはほぼ変わっていません。子供の頃しかしない”体育すわり”という座り方があります。あれは苦しいポーズです。けして楽な座り方ではありません。なぜ、あんな座らせ方をするのでしょう?それは、膝を抱えることで肺を圧迫し大きな声を出せないようにするためです。なぜそんなことが必要なのでしょう?それは、ひとえに先生=上官の言葉に反論させない為です。苦しい姿勢を強要し、素直に従えばそれを解く、という手法は、軍隊のそれを同じです。こんな風に知らないところで、現代人の従順で凡庸な性質は育てられています。それは、”誰のせい”なのかという犯人探しをしたところで是正されない非常に的な問題です。改善する方法はひとつ、そのような”構造”の影響を受けていることを自覚し、常に思考し続けることしかないのです。
冒頭にあげたように「お前のためだ!」と叱咤激励するのも、お飾り社長になって周囲から嫌われるのも、個々人の性質よりも所属する集まりの構造から受けている影響が大きいという話をここまで続けてきました。誰もが自分は自分の意思で行動を決定している!と思いたがりますが、上級生になれば下級生との関係は上下関係になりますし、同じ20歳差の人間と話すにしても親と友達と先生と上司とでは、まるで異なった言葉遣いを無意識に使い分けているのが現代人です。繰り返しになりますが、”関係性”や”構造”と完全に無縁で生きると言うのは実質的には不可能です。
学生時代から染み付いた上下関係、そのような構造を社会人になった後「サラリーマン」と呼ぶことになります。しかし現代において、それも地方においては、サザエさんのマスオさんみたいな生き方をしている人はどんどん減ってきています。同様にサザエさんみたいな家庭像も現代からしたらどこか歪です。同様にちびまる子の家庭も、クレヨンしんちゃんの家庭も、当時のロールモデルではありますが、今周囲を見回した時に感じる”家族像”とは少しづつ異なります。しかし、じゃあどんなのが今の家庭像なのか?と聞かれると答えはなかなか出てこないと思います。それが、生活が”多様化”してきている。と言うことの現れです。そして、この多様化が、これまでのサラリーマン的な生き方が通用しなくなってきたこととを大いに関わっています。
最近のアニメやドラマを見ていると、一昔前だった歪だと捉えられたであろう”母子家庭”や”擬似家族”のようなコミュニティが頻繁に登場します。つまり、もはやそれらは歪ではなく、多様性が導き出した、もっとも”現代的な家庭像”だと言うことができます。多くの場合、”繋がり”というコミュニティーの根本の対して”楽”で”重くなく”いつでも解散可能な合理的な集団として描かれ、やがて、その問題点に気がつきぶつかり葛藤し、成長する過程が描かれます。しかし、現実はどうでしょう?ドラマのように簡単にはコミュニティーは変化しません。30年引きこもっている子供のいる家庭や、ネグレクトや貧困に苦しむ家庭は、もがいてももがいても抜け出せない蟻地獄のように存在します。そういったテーマのドラマが多いのは、蓋を返せば、”そうなりたい””そうありたい”という願望の現れです。GTOが流行った頃は学校で”暴れられない”からドラマで憂さ晴らしをし、金八が流行ったのは”あんな先生がいたらいいのに”という願望の現れです。そういう人や関係が身近にあるならば、誰も共感しないでしょう。いないから憧れ、なりたいから憧れるのです。そんな目線でTVを見ると、現代人が何に対して渇きを感じているか少し理解できるかもしれません。そういった俯瞰する目線が、構造の中にいながら構造を疑う唯一の指針になっていくのです。
少し話がそれましたが、TVから得られる情報だけでも、現在、社会に置いて”強力なロールモデル”がいないことは分かるかと思います。一流大学を出て、一流企業に務める。これは非常に分かりやすいモデルです。ある程度裕福な家庭であれば勉強すれば、達成できます。しかし、ユーチューバーやインフレンサーと呼ばれるような人が台頭する現代においては、どのようにしたらその人のようになれるのか?というのは容易に理解できないようになってきました。もし、それを目指すとなると、対象を”研究”する必要があります。しかし、ここで一番最初に書いた言葉へ戻っていきます。それが「努力しても全員が報われる訳ではない」ということです。あるいは「イチローの癖を完全に真似出来てもイチローにはなれない」という方が正しいかもしれません。サラリーマン的なモデルが最良の選択肢であった時代においては、一流大学一流企業のルートが合理的最善策でした。しかし、ホリエモンが、ヒカキンが、西野が”稼げる人物”となっている現代において、昭和に置ける松下幸之助や豊田佐吉のような立身出世論と同じようにモデルとして真似をしても通用しません、なぜかと言えば、昭和と現代では流行の移り変わりがはやすぎること、そしてもう充分すぎほど豊かになってしまったこと、が挙げられます。この”豊かさ”についてのちに詳しく書こうと思います。
現代において、リーダーが絶対的な力で説得力ある成功者としても姿を見せ、従える人を引き上げていく、と言う”これまでのリーダー像”を良しとするのは難しいという話をしてきました。サラリーマン社会も体育会系もその論理の破綻が見え透いてしまったからです。明らかに沈むとわかっている船に乗る人がいないように、70年代以降の働き方を支えてきた価値観という船は、もはやメッキが剥げてボロボロの幽霊船のようになっています。それは、これまでの理論が不正解だった。ということではありません。戦後日本にはこれまでの仕組み必要で、我々の豊かさの礎はひとえに先達の努力と苦労の功績に他なりません。しかし、それとことからもそれと同じでいい。というのは話が違います。例え織田信長がどれほど優れた武将であったとしてもそれと同じことを現代で行う人はいません。昭和に産み出された社会の根本もまた、それくらい”旧来のものになってきている”のです。そうなった背景には、テクノロジーの進歩と様々な点において”もう充分に豊かになった”ということがあげられます。
飽食の時代と呼ばれる現代の最大の特徴は”多様な価値観が存在できるようになった”ということです。現代社会は細かな”棲み分け”が進んできています。”大衆”と言うものが細かく分けられ、それに合わせた市場が世界規模で拡大しています。これは数十年前では考えられないまさに未来の時代です。個人が生活に必要なお金をインターネットを利用して稼げる時代と、汗水垂らして働くしか選択のない時代。どちらがいいかはそれぞれですが、少なくとも現代は努力次第で可能性は無限大です。その点では形は違えど、戦国時代さながらの様相を呈しているのではないでしょうか?
次章では”三種の神器がある暮らし”や”マイホーム・マイカー”のある暮らし、と言ったイメージに心躍らせる消費者は少なくなり、万人がある程度豊かな現代となった現代、なにを選んでも差異くらいしかなくなった飽食の時代を生きる知恵と、これからの生き方について考えていきたいと思います。
・しくじれない時代
普段あまり意識されていないことですが日本では、”社会階層の移動”が欧米に比べて非常に容易です。欧米では”家柄”の力がいまだとても強く、例え大資産家であり大統領であるトランプ氏であっても社交界や経済界においては”成り上がり”の一人にすぎません。僕らの描く欧米=実力社会というイメージは、ある意味で当たっていてある意味で間違っています。同等に日本に対してのイメージにも間違いがあります。日本は戦国時代の頃から”実力主義”の側面が強い国です。これは今も変わっていませんが、むしろ70年代以降いわゆるボンボンや2代目の若が放蕩息子で親の築いた会社を潰す。というのをよく見聞きしてきた結果、日本は世襲が多い。というイメージを持っていますが、戦国時代や江戸時代、明治時代においても実力がなければ長男であっても家から追い出しましたし、力のない人間が上に立てば家臣がひきずり落とすことも度々行われていました。
日本は今も昔も”経済力や”人脈”などの実力で天下が取れる非常に実力主義の国なのです。それは裏返せば、力なき者は去れ、金の切れ目が縁の切れ目。という非常にドライで厳しい世界とも言えます。過去においては体裁上追い出しても、実は囲っていたりという救済策が存在していたので、今の時代のように”一発アウト”と言うことは少なかったので、しくじっても、やり直しが容易だったので、それを踏まえた上で上に立つ者には厳しく正しい姿勢が求めらていたのです。
しかし、現代社会はそうではありません、SNS社会において一度の社会的失敗は、立ち直れないくらいのダメージになります。「ちょっとくらい大丈夫だろ。。」とか、「みんなもやってるから。。」と言うことで受けた仕事が数年後、突然リークされて立場を失うようなニュースを最近よく目にしますが、そういった”グレー”なことへの寛大さやおおらかさと言う世論は、明らかに昭和期より減っています。それは大衆が非常に厳しく”真面目”であることを強いられいることの裏返しでもあります。少し前まで、例えば近所の八百屋さんで「いつもありがとよ!これオマケしとくよ!」というのはごくごく当たり前の光景でした。それの非常に大きいバージョンが談合や賄賂ということで、庶民から政治家まで多くの市民が”そういうことがあるものだ”と思って暮らしていたし、自分にも身に覚えの一つくらいあったので、そういうニュースが出ても「それくらい許してやれよ」という、自分だったらそれくらい許してほしいな。。という言葉や態度に繋がるのです。しかし、現代人は高度な情報と平等なチャンスと共に平等なリスクを背負っています。そういったグレーな事が許されない現代人だからこそ、他人の不正は許しがたい裏切りとして映るのです。
リーマンショックと311の大震災以降、日本の経済の見通しは素人目にも芳しくありません。”お金があればなんでもできる”ことで豊かになったバブルは裏返しとして”お金がなければなんにもできない”という現実を明るみにしました。さらに震災や有事の際は”お金があっても何にもできない”ことも経験として感じたはずです。コンビニに並んでる水や食品は魔法のように現れるわけではなく、どこかで誰かが作り、どこかの誰かが運んできているものだという、ごくごく当たり前のことを普段の生活で想像できない程、我々は豊かさに麻痺して日々暮らしているのです。
現代で生まれ育ってきた世代は、リスキーになったお金に頼る選択するよりも、”ほどほどに稼いで質素倹約を心がけ気の合う人と繋がって生きる”ことが、お金に変わる”リスクヘッジ”になってきているのです。とは言えそのような”繋がりの資産化”は、むしろ今のあり方が当然で、これまでの30年が歪だっただけだと思えるのは僕だけでしょうか?
皆さんご存知の通り、日本は少子高齢化が進んでいます。そして、テクノロジーは日々進歩していていますが、他国から見える幸福さとは反比例して、そこに暮らす我々が幸運を感じられる感覚はむしろ鈍くなってきています。現代の日本で暮らす僕らは不満はあるかもしれませんが、とても豊かな社会です。しかし、それを日々感じることは少ないのではないでしょうか。それは、毎日どれだけ美味しいご飯でも、毎日食べると飽きてしまうことと同じでしょう。貧しかったと言われる時代、節句のチマキを心待ちにしていた子供は一年に一度だから、たいそう喜べたわけです。しかし、現代のように”飽食”の時代を生きる我々は、毎日好きなだけチマキを食べられる豊かさと引き換えに、一年一度の特別なチマキを失ってしまったのです。
現代は、コンビニでいつでも気軽に買い物が出来て、ほぼ全員が常時インターネットに接続出来ます。その時点で、情報格差は非常に少なく、ある種の公平な社会が実現されています。昨今のインターネット上の情報にフェイクや虚偽も多く、”正しい情報を検索する為の知識”の有無が問われるようになってきています。その意味で徐々に不公平が広がっているとも言えまずが・・・それは”自分で選んだんだ”と感じることも、実はその情報を”選ばされている”ということがあるのは、過去も現代も変わりません。現代は優れた時代かもしれませんが、それを操るっているのは機械ではなく、どこかにいる”人間”だと言うことを忘れると痛い目にあう可能性があります。そして、繰り返しになりますが、現代はどんな分野でも、”しくじり難い”時代です。そのような時代に若者が慎重になるのは当たり前のことでしょう。「俺も若い頃、学生運動の頃には何人も殴ったよw」なんてことを武勇伝として語れる時代は遠い昔です。今ではデモに参加したことがSNSでバレて内定取り消しなんて自体が発生している訳で、”若いうちの失敗は宝物”と簡単には言えないような時代において、慎重な選択を選ぶのは当然のことでしょう。
現代は様々な分野でインフラが進みました。過去と比べて”モノの価格”は安価になっています。例えば、庶民憧れ三種の神器のひとつ”テレビ"の価格は昭和当時、一台が給料約一年分の価格だったと言われています、現在みんなが欲しがる最新のiPhoneが10万円くらいですので、現代は”生活に必要な最低限のモノ”のコスパが過去と比べてはるかによくなっています。現在の一般家庭で給料一年分の買い物・・・そう考えると、大体300万くらいの買い物でしょうか?その金額を出して”家族全員が喜ぶ買い物”を選ぶとしたら、物で言えば、せいぜいファミリーカーくらいしか見当たりません。逆に言えば、それ以外は普通に贅沢してなくても買える。ということですし、その車ですら選ばなければ10万くらいで買えてしまうのですから、テレビ=給与一年分しか選択肢がなかった時代と比べたら、その選択の重みや意味合いに雲泥の差があります。”お金で買えるモノ”を所有することで感じる”豊かさ”や”幸福感”は貧しかった昭和と比べてはるかに目減りしているのです。
もし今、手元に300万円があってその使い道を家族会議をしたら、現代人の選ぶ選択は”海外旅行”や”ペットを飼う”とかになるんではないでしょうか?それは、”モノ”ではなく”体験”にお金をかけることが最もコスパのいい”豊かさ”の指標となっていきているからだと思います。
所有できる目に見えるモノは、昔と違いわずかなお金で、誰でもいつでもどこでも買えてしまいます。それに比べると見えない”つながり”や”経験”や”縁”は、お金”だけ”では買えませんSNSの発展で承認欲求の満たし方も変化してきます。お土産を近所に渡して、ついでに立ち話で軽い自慢話をできた時代とは異なり、現代はインスタに写真をあげる為に旅行をし、ペットを飼い、食べきれないラーメンを注文する時代です。その本質は過去と大差ありませんが、チマキの話と同様に、いつでも、どこでも、安価で手に入るものは、SNSで投稿されたと同時に消費され消えていきます。さらに、そのような個人の体験をYouTubeに投稿したり、ブログのアフェリエイトへと繋いで”稼ぎ”へ直結させることが出来るのも現代の面白い点です。その意味で現代は”知識”だけでなく”経験”も含めて資本化していると言えます。
・闘争社会から逃走社会へ
旧来の承認欲求を満たすモノゴトのあり方が変化したことで、”体育会系のノリ”は魅力的でなくなってきました。これまでの熱い感情を刺激するいわゆる”エモーショナル”(心や感情の動き、状態を言い表す語句。 感動・情緒を表現する)な繋がりや要素から、”チルアウト”(比較的陽気でスローテンポなさまざまな形式の音楽を表す包括的な言葉。発祥は1990年代前中期、”くつろぐこと”を促す俗語から来ている。)な繋がりが、物事の中心へとなってきていると言えます。 同時に現代は多様性と言う価値観ゆえに、未完成な”ノイズ”的・断片的なものがそのままの形で市場や社会に発信されるようにもなりました。その結果として、まとめサイトのように、それらを目利きするキュレーターの役割が求められるようになっています。断片的なその場にあるものを纏めて物事を作り出すことを”ブリコラージュ”(理論や設計図に基づいて物を作る「設計」とは対照的に、その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として何が作れるか試行錯誤しながら、最終的に新しい物を作ること)と言う言葉がありますが、現代はそのようにして、ノイズというバラバラな音の素材を”テクノ”や”アンビエント”といった音楽に仕上げていくことが求められているように感じます。
そういった先にエモではなくチルなもの、渾然一体とした神話的、自然的、土着的なものをそのまま取り込んで、嬉々と踊るような”生活的自由”が産まれるように思うのです。それは”孤立”ではなく”孤独”な姿であるべきで、知らないこと、わからないことを喜ぶような生活です。貧しかったけれど、喜びが見えた。そんないつかの貧しい時代ような生活の機微へと発展的に回帰することが未来への道だと思います。
様々な切り口で時代について考えてみるのも面白いかもしれません。たとえば音楽の流行で考えてみる。クラブカルチャーのような”集まって騒ぐ”というのが盛んになったのは、地方の若者が都市部に集まったてきた70年頃からです。それは同世代が大人達より人数的に多く、勢いがあった時代です。しかし、これからの日本は少子高齢化で若者が減って物理的に”人数が集まらない”時代になっていきます。集まって騒ぐ”エモい”時代から、それぞれが個々でくつろげる時間を共有し合う”チルアウト”的な営みに移行していくのは、ある種必然の流れかもしれません、あるいはインターネットを介して世界中のライブに参加できるようになったり、イベントは各自が家で行いクラウド上で大きなイベントを行うようになるかもしれません、いずれにせよ物理的な距離をバーチャルは超えられますが、その様子は外から見たら非常にチルアウト的に映ることでしょう。
レゲエやヒップホップでは”仲間意識”というのを大切にしますが、その結束のキモは、彼らが皆”自分たちは社会に認められていない”そう感じる者同士であることでした。音楽やファッションは、仲間を認識する”シンボル”となっているのです。それは特定の社会的階層に対する反発としれあわられます。最近で言えばサラリーマンという”親の敷いたレールで行きて行くつまらない人間が、しない・聞かない・やらないこと”をあえて行うことがクールだと言うスタイルでした。しかし、この頃はそういうノリは明らかに減退しています。なぜかと言えば”明確に反発したくなる”いわゆる勝ち組のイメージが多様化し、ひとまとめでは語れなくなってきたからです。「俺はあいつらとは違う」となるためには共通認識の敵が必要ですが、みんなある程度自由で、何を選んでも後ろ指を刺されないようになった現代においては、誰が正しいか間違っているのかが容易には断定できません。
大衆の抱く平均的なモデル=ロールモデルが多様になった現代においては、一丸となって”反発”する対象は次第に見えずらくなってきています。むしろ現代において時代を変えるための”闘争”より、どうせ時期に滅ぶんだからほうっておこう。という”逃走”が支流となってきているように感じます。モデルがないと言うことは、どうなるか分からない。と言うことなので、”態度を決めないこと”が一番の処世術となります。
”男らしい”また”女らしい”からという固定された価値観から離れLGBTが増えているのも、そういった時代に対する”危機感”を肌で感じているからだと僕は考えています。もちろん病としての性同一性障害等とは分けて考えるべき事柄ですが、中性的な容姿や思考をもった人がズバズバ切る。というマツコデラックスのような人がコメンテーターとして重宝されているのも現代らしいことかも知れません。
ここ数年注目されるアーティストの中に”やんちゃな見た目、言動の人たち”ではなくて、”クラスにいそうで普段あまり喋らなそうな物静かな若者”で、実はすごいテクニックや歌唱力を持っている。というミュージシャンが多く見受けられるようになっています。影を持った人物が人気というのは過去も同じですが、そのキャラクターにかなりの幅があるのが現代の特徴のように感じます。例えばアニメや漫画において、主人公が普段は弱くて情けないけれど”実は選ばれし者”であるという設定が多くみられます。例えばナルトもルフィも”選ばれし血統”を持っていながら、それを認められない環境、あるいは本人がそれを知らずに育っていますし、”君の名は”においても主人公は、頼りない日常にぽっかり胸にあいた穴を埋めることができずに暮らしていて、実は役割を担っていたことを知っていく過程が描かれています。そして、ライトノベルの世界では”転生モノ”が大きな支持を得ています。”今の自分は実は選ばれし者で誰もそれに気づいていない”パターン。もしくは”本人も気づいていないけど転生したらチート”というパターンがウケているのは、そうありたいという願望が働いているからでしょう。転生=生まれ変わり。ですので、ここでも目の前の現実との”闘争”ではなく、”逃走”が図られています。そして多くの場合、異世界での冒険で強くなって現実に戻り剣や魔法ではない強さを身につけて、現実に立ち向かう。というパターンが王道となっています。つまり一旦距離をおいて状況を俯瞰し、力を蓄えた後に舞い戻ろうという思考は、一見逃げているようで新しい”闘争”のあり方であり、これは、”仕切っている人間が憧れられない”という現象と同じ要因から出てきているように思えます。
・地方移住と転生願望
その意味で近年の”ローカルブーム”もある種の”転生願望”の現れと言えるかもしれません。都市部という自分の世界から離れ、隔絶されていながらも、都合よくこれまで培ってきたスキルや言語は通じる。というのは異世界ものと同じスキームです。ということは都市部から田舎にやってきたローカルスター=地域の人からしたら”勇者”は、やがて自分の国を築く為に旅立つということになります。現実ではない偽りの世界に彼らを留めておくことは果たして闘争なのでしょうか?もしくは逃走なのでしょうか?
”孤独なヒーロー”と言えばマーブルヒーローです。主人公の多くが自己等で望んでいない力を身につけてしまい、世間に正体を隠して戦い、誤って恋人や友人や家族に危害を与えてしまい、恨まれながらも孤独に世界を守る。そんな風に描かれます。正義の味方が周囲から理解されず孤独であり、大敵を倒せばまた新たな大敵と戦うことになる。そして、いつも邪魔をしてくるのは身内や近い存在。これはまさに”アメリカという国をキャラクター化”したような存在です。対して日本のヒーローはどうかと言えば、孤独な生い立ちのヒーローは最後にはそれまで迫害してきた敵にすら認められ、ともに真の悪と戦い、居場所を見つけて終わります。アメコミでは孤独に勝つパターンが多く(アベンジャーズのように近年は変わって来てるのかもしれませんが)日本では一丸となって打ち勝つパターンが多いです。そして多くの場合、主人公は勝利ののち姿を眩ませたり、新たな旅へ出たりします。日本人は”繋がり”という”人徳”を持ち”名声”には固執しない、そんなヒーロー像を好みます。ドラクエの勇者も国王からの国を譲るという褒美を辞退しています。映画”男はつらいよ”のとらさんは、いつも誰かと誰かを繋ぐ、関係を修復する役割を担って、最後は妹の桜だけが兄の心情を察し声をかけますが、それも振り切ってまた風天の暮らしに戻っていきます。お調子者で義理人情に厚い。このようなヒーロー像も何度となく映画や漫画で描かれてきました。釣りバカ日誌もこち亀もあるいはワンピースのルフィも、合理的判断で動くのではなく、いつも義理人情で動き、周囲=大衆からは理解されないながらも、近しい仲間からは信頼を得ています。しかし、そのように描かれるヒーローは皆、どこか孤独で基本は一人の趣味人や渡世人として描かれます。いずれも国民に愛されるご長寿キャラクターですが、こういったところに国民性が深く現れているように感じます。
転生を繰り返すように、生活する場所を転々とする勇者達が、都会や地元という”現実世界”ではイケテナイ人々であるとするならば、そのような人々にとっての安住の地は一体どこにあるのでしょう?その答えは地元で生きるモブキャラの僕にも、勇者として他方からやってきた人々もまだ分かっていないように思えます。
・変わらない為に変わり続ける社会へ
ここまで、大いに脱線しながら・・・一流大学を出て一流企業に就職して家庭を築く。という”サラリーマンモデル”=70年代頃からの日本の”普通”が通用しなくなってきている。という話を繰り返ししてきましたが、じゃあ次の時代はどうなるのか?ということが気になります。
僕は次の時代は新たなイノベーションが巻き起こる時代だと考えています。例えば車の”自動運転”これが実装されると、これまでとはまるで異なったビジネスが生まれてきます。車での移動中の過ごし方は個々によって多様化するでしょう。車用の良い寝具や、その時間に限られた空間で行えるアクティビティやゲームの開発、また休憩場所が固定されてくるはずなので、そこが現在の駅やサービスエリアのように地域観光を伝えるメインの場所となるかもしれません、何れにせよ人が運転をしなくて良くなる・・・
ということは旅行業や宿泊業にも大きな影響が出ます。また、そもそも車を所有することも減るかもしれません、アプリで予約をしておけば家まで車がやってきて、帰りは勝手に駐車場まで戻ってくれる。そんな風に暮らし方そのものが大きく変化する可能性が目の前に迫っています。超高速インターネットが普及すれば、スカイプ等のタイムラグは限りなく0に近づきます。それはつまり遠隔治療の技術革新や、災害、介護、コンビニの深夜勤務のような様々な仕事が自宅のパソコンでも行えるようになる可能性を示しています。VR技術の進歩もめざましいです。このように様々なテックの進化が、物理的に”群れなくても生きられる”という非常に高度な”個人社会”へと向かっています。
これからの僕らは複数のアカウントを自在に操り、幾つもの仕事と、いくつもの顔を使い分け、どこでも誰とでも繋がることが可能な時代を生きていくことになります。それは、極めて近未来的な世界でありながら、そのベースにあるのは”村社会”のような狭く濃厚な仕組みです。”孤独”でも生きられる社会において、”孤立”しない為に何を選べば良いのか。そのようなことが今日問われているのかもしれません。
最後に‥
先日、飛騨に視察に立ち寄られた方が帰り際に言われた一言が耳に残っています。
「お話を伺って、近頃感じていた”違和感”の正体が少し分かったような気がします。」
見渡せば様々な場所で様々な人が新たなイノベーションを日々起こしています。
クラウドファンディングのサイトに目を通せば、どこかで聞いたような似たような企画が全国各地でおこなわれようとしていることが分かります。
それは良いことなのでしょう。過去と比べてもロールモデルが曖昧な時代というのは、新しいビジネスがたくさん産まれるタイミングです。しかし・・だとしても、いや、だからこそ街中に増え続けるゲストハウスやコワーキングスペースやカフェや短期的な流行のタピオカドリンクのお店を見ているとモヤっとした感情と、”違和感”を感じることがあります。
・・それらは本当に”新しいイノベーション”で、この地域に必要なことなのでしょうか?
他地域にあるものだから自分の暮らすエリアにも欲しい!便利な暮らしが欲しい!というのは、単純に言ってしまえば、”大きなバイパスと大型ショッピングセンターとフランチャイズの飲食店とコンビニとパチンコが並ぶ景色”を地方にたくさん作った先人達と同じ考え方です。
さて、そのような景色を僕らは”ローカル”と呼ぶでしょうか?まっさらな眼で見たらもしかしたらそっちの方が”日本の現在の風景”なのではないでしょうか?ソーラーパネルの設置も、棲みついで来た民家を売り払いのも、それぞれの生活がかかっているから仕方がない・・それはもちろんごもっともの話だと思います。
しかし、”海外の人が熱狂する田舎”や”飛騨の匠が生きるまち”というものが本当にこの町に存在していて、それを本気で守りたいと思うなら、それを”普通に行い続ける人々”が、日々の営みを粛々と続けていることが、結果として”商い”になるところまで深めなければ、持続可能な社会ともはなり得ません。
この町で暮らす人の多数派が、街の文化や歴史や現状の姿を”誇り”と語れるような、文化・思想を産み出し、そして守らなければ、ディスカバージャパンブーム時のような観光都市化や、列島改造論の頃に生まれた画一的な町並みと同じように、その土地の特性や歴史とは無縁の”原風景”という名の観光施設が、ただ増えるだけなのではないでしょうか?”
平成”という”平に成る”時代は、戦後日本の歩みに先人達の営みに感謝と敬意を払い、鎮魂と慰霊を持って社に納まっていただき、間違えてしまったことは侘び、それを受け止め、悪いバトンはここで埋めてしまい、良いバトンを次世代に渡さなければいけないと思います。おかしな凸凹は平らにならして、剥き出しになった無残な土を開墾したねを撒き、芽を出した若い可能性が再び毒されないように、見守り助けることが大人の役割ではないでしょうか。30代にが自由に動けるのは、ロスジェネ世代が背負ってくれた様々な要因があってのことです。先達に感謝し、居場所を作り、若い世代に対しては蓋とならないような風通しの良い世界を作ることが、30代には求められているように思えてなりません。
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