2月【ゆっくりとふる】
「こちらでは随分ゆっくりとふるんですね…」
じっと窓の外を眺めていたお客様が、そう小さくつぶやいた。パソコンとにらめっこをしていた僕は、顔を上げて格子窓の方へ眼を向けた。
「あ…そうか、海沿いでは湿って重たいんですよね」
「えぇ、こんなふわふわしたの初めて見ました…」
ところ変わればあらゆることの速度が変わる。きっと歩く早さも、生きる長さも変わっているのだろう。そういえば『ここ』で生きようと、心に決めたのはいつだったのだろう。思い出そうとしたけれど、具体的には思い出せなかった。決断の瞬間なんてあとから適当に決められた記号にすぎない。『革命の最中に生きている人は、革命に気がつかないものなんだよ。』友人がよく口にする言葉をふっと思い出す。
「ちょっと写真撮りに行ってきますね」
そういってお客様は外に出た。普段当たり前だと思っていることが、当たり前ではなくなる瞬間がある。格子窓の向こう、見飽きた二月の景色は、いま旅人の目を通して、旅情の美しい思い出として心に刻まれている。僕はその瞬間に居合わせたことを小さな幸運だと思い、疎ましいとさえ思っていた二月のことを、ほんの少し愛おしいものだと感じ始めている。
遠い未来、銀河鉄道が風景となった頃、地球で暮らす『ぼく』と、射手座の先端で暮らす『あのひと』は同じように歳をとるのだろうか?考えてもわからなかったけれど、わからないという点においては、いつも一緒にいる妻の気持ちがわからないことと同じようなものななのだろう。不意に数日前見た動画のことを思い出した。「もし地球の自転が止まったら」という海外のドキュメンタリーだ。地球の自転の速度が緩やかに遅くなっていくことで様々な予期せぬ事態が巻き起こる…地球は本当に微妙なバランスで成り立っているそうだ。だとしたら今日のこの瞬間も、二度と再び起こることはない奇跡の瞬間かもしれないし、別にそうでもないのかもしれない。
ぼくらは絶えず自転していて、なんらかの影響で公転している。ぼくらの営みの中心にあるものはなんなのだろう?
そんなことを考えていたら、障子戸一枚隔てた奥の部屋から呼ぶ声が聴こえた。裏で一緒に作業しているはずの妻は、いつものようにウトウトと寝てしまっているのだろう。手持ち無沙汰の猫がぼくをことをしきりに呼んでいる。
窓の外で楽しそうに写真と撮る遠方からのお客様と、障子戸の向こうで薪ストーブの暖かに包まれて昼寝をする妻。「丁寧な暮らし」だなんて人は言うけれど、そんなの幻に過ぎない。だけど、ゆっくりとふる雪を美しいと感じることと同じで、どんな風に見られているかなんて、別に意識しなくてもいいことだよな。と思った。
障子戸を引っかく音が聴こえる。お腹が空いたのだろうか。トイレを掃除してほしいのだろうか?いずれにせよ、ぼくは寝てしまっているであろう妻に毛布をかけなければならない。
ゆっくり降る雪のように、ここでは今日も色々なことがゆっくり過ぎていく、ぼくらの頼りない営みの先に、ゆっくりとふりつもるものは一体なんなのだろう?
わからないけれど、別にわからなくてもいいのだろう。降り積もる雪がただただ静かにふりつもるのと同じように、それらはやがて景色を変えて、春が来る頃には跡形もなく消えてなくなるものなのだから。
0コメント