三十冊目 【商店街はなぜ滅びるのか】
【商店街はなぜ滅びるのか】
著者 新雅史
出版社 光文社新書
わたしたちは「中流」のイメージから何を抜け落としたのか。そして、「中流」のイメージの偏りが、いったい何に帰結してしまったのか。
偶然かもしれないけど、商店街を再興した。という記事を最近よく目にする。多くは自治体と一丸となって、「街の中心部にかつての活気を取り戻す」であったり、「古きよき昭和の面影と地域がおおきな家族であった頃」へと回帰することで、弱者(高齢者と子供)を相互に見守り助けていたコミュニティを再興し、少子高齢化対策とする。もしくは近年のインバウンドに目をつけて商店街に「ゲストハウス」を作ることで、雨天時でも歩いて専門店での買い物が可能な利点を生かして、訪日外国人に日本の日常を街ぐるみで体験してもらう。といったものがあった。ほかには「コワーキングスペース」や「認可保育園」を商店街に作るというのも目にしたが、そのどれもが目指すのは「コミュニケーションの場」としての「在りし日の商店街」への回帰だろう。それは、確かにそれはすばらしいことだと思う。実際、飛騨おいても商店街の空き店舗を活用する取り組みやあたらしい観光の目玉を作る動きは数年前から活発に行われている。
しかし、ここで一度立ち止まって考えたい。確かに「商店街の再興」は低迷する地域経済へのカンフルになり、古き新しいコミュニティや雇用先となり得る可能性がある。しかし、その前に、なぜ「商店街」が必要とされ、そしてこれからどうして必要となるのか?という点の「商店街の再考」はあまり行われていないように思う。なぜ日本が商店街を必要とし、どうして現在のような「営む側も利用者も高齢者ばかりで後継者がいない」状態、また「利権を守るだけの保守層」いう負のイメージへと変貌していったのか。その点について充分な反省と考察が行われなければ、悲劇は繰り返すのではないだろうか?
商店街が出来た背景を簡単に説明すると…戦後、爆発的に人口が増加したことによって、都市部への集団就職が活発になる。その増えすぎた若者を失業者にしない為に政府は積極的に小規模な小売業や製造業を起業することを進めた。三丁目の夕日の「鈴木オート」にも「ろくさん」という若者が就職で田舎から来ていたし、男はつらいよの寅次郎の妹・さくらの旦那であるひろしは寅屋の裏の印刷会社で働く職工で、やはり地方からの就職組だ。そういう事情で爆発的に都市部に若者と商店が増えるのだが、何のノウハウもなく起業できてしまうため、粗悪な製品や不正が横行するようになる。それに対して生活者の代表であった主婦層は様々な運動を起こすことになる「生協」や「主婦の店」はその名残だ。おりしも時代は増えすぎた人口を抱える為に郊外に大型ベットタウンを作る時代となり、田園都市をはじめとする日本が参考にした諸外国の近代都市設計の中に「コミュニティ」の中心として「市場」「商店街」が存在していた為、急速に今日我々が創造するようなタイプの商店街が日本中で作られていくことになる。
本書で著者が指摘するように「商店街」というものは日本の歴史において、それほど長い歴史的背景を持った存在ではない。僕らは子供のは商店街が勢いを失い、代わりにショッピングセンターが増える時期だった。そして、その後のコンビニ文化へと商店の形は変わり続けた。コンビニもイオンも子供の頃からあったが「歴史がある文化」だとは思っていないが、ぼくらの子供世代からしたらそれらも立派な「日本の風景」として認識されることになる。「歴史ある商店街」というのもそれに似ている。もっとも商店街の場合は多くの他人が集まり、たくさんの想いをもってその仕組みを構築していっていた為、当人にとってより思い出の補正がかかるのは致し方ないことだとは思う。時が経ち、バブル期になるとアメリカからの政治的圧力もあり日本は大規模な国内開発を求められ、都市と都市を結ぶバイパス道路が爆発的に整備される。この時の地方への土木工事のばら撒きが、商店街を初めとする地域におおきな経済効果をもたらす。この頃から、いわゆる「補助金頼み」とか「代議士との癒着」みたいなイメージが地元の中小起業に付きまとうようになる。しかしそれも致し方ないことだと僕は思う。誰もが時代に翻弄され家族を養うことに必死だっただろう。むろん私腹を肥やすために金儲けに走るような輩は、いつの世でもいて、そういう人にはなんの同情も感じはしないが…
さて、これからも永遠に続くと思われていた経済成長は泡のように弾ける。バイパスの脇に整地された空き地は工場誘致や住宅利用の見込みもなくなり塩漬けとなる。そこに眼をつけたのが「ダイエー」などの大型ショッピングセンターや、ボーリング場、大型家電店、ファミリーレストラン、そしてコンビニエンスストアだった。こうして現在の「地方都市」の景色は出来上がっていった。しかも皮肉なことに、おおくの人が知るようにコンビニの黎明期オーナーになったの人の多くは地元商店街で酒屋や商店を営んでいた人々だった。後継者問題や、バイパスが出来たことによる地方の車社会化に商店街は対応できなくなり、次々に離反者をだすことになり、商店街は外からと中から崩壊していったのだ。詳しい経緯は本書を読んでいただけたらよいのだが、世の中の「なくなっていくもの」には、きちんと理由がある。そして、それは一個人がどうこうできないような時代の流れであることが多い。現代はデータや証言を誰でもいとも簡単に手にすることができる時代だ。思い込みや熱い想いで行動を起こすことも時には大切だけれども、根拠や裏づけのないものは、土地にはなかなか根付きぬくい、ということを知ることも大切だと僕自身も自戒もこめて強く思った。
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