【これまでの百年を尊び、これからの百年を想う。】
ぼくらの暮らす町。高山市国府町には「あららぎ」という歴史ある文芸誌があります。機会をいただいてぼくも一筆書かせていただきました。こちらに転機しますのでよろしければご覧ください。
我々夫婦が、国府町宇津江へ居を移したのは平成二十 七年の六月ことです。早いものでこちらでの暮らしも四 年目に入りました。不出来な我々を温かく迎えてくださ り、いつも気にかけてくださる町内のみなさまに、日頃から感謝の気持ちをもって暮らしてはおりますが、言葉にして直接お伝えする機会は少なく、この度歴史あ る「あららぎ」紙面をお借りしてこのような機会をいた だけたことにまずは心より感謝もうしあげます。 高山市出身の私と愛知県出身の妻・佳子が国府町へ 移り住むきっかけとなったのは、金桶で不動産業を営む白栗不動産・白栗勇さんとの出逢いでした。我々夫婦は現代の便利な生活のなかで遠く置き去りにされてしま った古くから続く営みの作法に興味がありました。とはいえ今もって甲斐性のない二人ですこのようなことを語るのは些か恐縮なのですが…なにはともあれ、地域特有の暮らしの姿はその地域特有の「住居」の端々に現 れると考え、古民家で生活をしたいという想いを募らせ ておりました。しかし、古民家というものは修繕の具合やお墓・仏壇などの問題から、不動産としての扱いが難しく、なかなか希望する家を紹介してくださる不動産屋とめぐり合えない日々を過ごしておりました。ちょうどその頃、古民家専門の不動産屋が金桶に開業したという記事を見かけ、藁にもすがる思いで白栗不動産の扉をたたきました。
白栗さんと古民家を探す日々は、今思い出しても楽しい時間でした。ひとつ出会う度に将来の展望 を考え、あれこれと話し合った日々は我々夫婦の大切な宝物です。約二年間続いた古民家探しの日々のうち「ここにしよう」と心に決めたけれど破談になった物件は二軒、ここがいい!と思うも夫婦間で意見がまとまらず諦めた家が二軒。お互いの想いを伝えあう為に、白栗さん とも何度となく喧嘩をしましたが、それも今では良い笑い話です。 荘川町六厩で現在の住まいと巡り合った日のことはい までも鮮明に覚えています。その日は所要で岐阜方面に出かける日で、私は偶然荘川方面へ車を走らせていまし た。その時に白栗さんから電話が入りました。「六厩で取り壊している古民家がある、移築なら譲ってもらえるかもしれないから、見に行っておいで」ちょうどタイミングがよかったので、僕はその足で六厩の現場に向かい ました。しかし、時すでに遅し…古民家の取り壊し現場はもう更地にな っていました。その旨を伝えると、「それじゃあ後日、 大工さんの土場に解体した部材を見に行こう」ということになりました。数日後伺った長都建設の工場は、私の実家の目と鼻の先にありました。現在暮らしている家と初めての出 逢った時の感想は、家一軒分の材料というのはこんなにもたくさんあるのか!という純粋な驚きでした。建っていた頃の写真を見ながら、長都建設の上町棟梁と白栗さん は、この家が約百五十年前に建てられたもので、家主の先祖が自分の山から檜を切り出し、当時としては珍しく木を角に製材して建てたものだと、在りし日の古民家を愛でるように、たくさんのお話をしててくださいました。明治初頭、もちろん現代のような製材所もトラック もチェーンソーもない時代です。汗を流し、雪山からそりを使い材木を下ろし、製材をして材木を揃えていった手間と時間を考えると、胸に迫るものがありました…巡り合わせとは不思議なもので、その黒く立派な鍼や板と 対峙したその瞬間「あぁ、この家に住むことになる」そう直感し、「この家を移築しましょう!」と突然声をあげて、棟梁と白栗さんを驚かせてしまいました。その瞬間、私のなかでは、この古民家での穏やかで、にぎやか な暮らしの情景が胸がいっぱい広がっていたのです。
それからの日々は、本当にあっという間でした。銀行の融資が決まるより前に、はやる気持ちを抑えきれず、 黒く煤けた床板や建具を、妻と二人丁寧に磨く日々から 移築計画は始まりました。愛情もって磨けば、どれだけ 汚れて見えるものでも、それぞれ異なる美しい表情を見 せてくれる。泥の中から蓮の花が咲くように、我々の両 手が汚れるほどに、心の内に妙なる美しさを宿すのではないか…一心不乱に床板を磨いた経験は、そのようなこ とを気付かせてくれる経験となりました。思えば、若い我々は、物心ついた時から、お金を払えばあらゆるサー ビスを得ることが出来る環境で育ちました。パソコンが あれば図書館に行かなくても大抵のことを知ることができます。しかし、その便利さと引き換えに置き去りにしてきてしまったものがあるように思えてなりません。私達は、たくさんのことを情報として知っていますが、身体が自然と動いてしまうような打ち震える感動や腑 に落ちて身体が自然と動いてしまうような経験は、実は とても少ないように思います。見た目ではなく内側に秘めた美しさに目を凝らすということは、古民家が我々に教えてくれたことでした。 不甲斐ない我々は、日ごろから「甲斐性のある先輩方」 に支えられています。薪割りにしても、町内の付き合いにしても、分からないことばかり…教わることばかりです。思えば、私の子供の頃はまだ、遅くまで外で遊んで いると叱ってくれる、おじさん・おばさんが街中にいま した。親族と先生以外のたくさんの大人との関わりのな かで様々なことを学び、社会のなかで生きていくすべを 知らず知らず身に付けていきました。しかし、この数十年でそのような「お節介な人」は随分減ったのではない でしょうか。私自身もそのようなお節介な大人ではありません。かつて日本では元服を迎える際、服装と髪型を改め、それまでの幼名を廃して元服名を新たに付けるこ とで、大人の社会への参加を認めてきました。アフリカ の先住民は成人の儀式として、足に紐を括り付けて高い ところから飛び降りることで度胸を試します。どちらも 同じ理由で行われる行為です。「大人」になるというこ とは、子供という蛹から大人という成虫へ産まれ変わる ことなのです。確かに我々世代は成人式という儀式を経 て、選挙権を持った「大人」になったのでしょうが、一 体どの程度「大人」である自覚を持てる機会に恵まれて いるでしょう?今まさに私は、祭りの練習や、消防の寄 り合いを通じて、「大人」の作法を学ばせてもらってい る気がします。いただくものは両手に余るほど多く、お 返しできることはいつもほんの少しです。もうしわけな いと思いつつ、このご恩をいつかお返し出来る瞬間がく る。そう思って備えております。現代はそのような地域 の関わりを、煩わしいものだと敬遠する人も多いそうですが、人は多くの関係を持つことで、鏡に映るように自 分自身のことを学ぶものです。このような関係があるからこそ、人は奢らず謙虚であれるのではないか、そんなこと想います。誰かと関わるというのはお互いにとっていざという時の備えでもある、そう私は思います。
事で大変恐縮なのですが、我々は宇津江の集落に仲間に入れていただいき「やわい屋」という屋号で 小さな商いを営ませていただいております。元々は厩だ った空間を改装したお店で、全国を旅して探してきた民藝の器や、日常に寄り添うような古本を販売しておりま す。民藝というのは、およそ百年前、思想家の柳宗悦が 造った造語です。「民藝品」といえば、飛騨では、小屋 名しょうけ、有道しゃくし。といった庶民が日常の生活のなかで使っていた道具類を指します。柳宗悦は日本が急速に近代化していく昭和初期に「貧しさの中に宿る美 しさ」こそが人間的であると説きました。それは当時から見て百年前、江戸後期の庶民の暮らし方に人間らしさを見出した運動でもありました。民藝運動の同人達は、急速な近代化の歪みが、庶民や職人たちへ重くのしかかった戦中・戦後の日本において、先祖から続く暮らし方を実直に続けていた農村部の、けして豊かとはいえない暮らし の中で生み出された道具や器のなかに「健康的な人間本来の美しさ」を見出したのです。それは、おおきな発見でした。お金や地位や名誉をもたなくても、貧しく慎ま しい暮らしの中から強く美しいものが産まれる。時代に 追い詰められた人々へ「泥の中から蓮が咲く」ということを伝えると同時に、都心で暮らしながら、急速に推し進められた近代の合理主義への流れに、いいようのない 不安を感じていた多くの普通の若者達の背中をやさしく 押す運動でもありました。彼等が声をあげなければ、日 本の田舎の風景は、今より殺風景なものになっていたか もしれません、今も多くの地方に昔ながらの美しいもの が残っている背景には、土地土地の文化を愛し、次の世 代へ繋ごうとしたひたむきな人々の、多くの想いや活動 があったと私は感じています。地域文化とは幾重にも折 り重なった重層な土壌の上に育ちます。我々が「田舎」 の風景を美しいと感じた時、それはそこに暮らしてきた数多の人々の系譜の上に裏づけされた美しさなのです。 柳宗悦は後に「心偈」という短句を残しました。そのなかに私が大切にしている言葉があります。こちらの引用 と説明をもって、本稿の結びとさせていただきたいと思 います。
「ナドテユタケシ貧シサナクバ」
~貧しさとは、何も持たないことである。とりわけ私の 慾を持たないことである。富にあこがれる貧乏のことな どを云ふのではない。それは「貧」でなくして「貪」に 過ぎまい。ここで貧しさとは、私を持たないことに、無 上の持物を見出すことである。だから貧しさこそ、豐か さなのである。古來貧の徳が、宗敎で尊ばれる所以であ る。世の富は中々法門へ近づく道とはなり難い。とかく 心の貧困を齎す因となるからである。「清貧」とは、慾 を棄てたものに伴ふおのづからの淨さである。それ故、 「足らざるに足るを知る心」とも云へる。貧に幸福の確 約を見るのである。かかる貧を寂とも云ふ。貧をおいて 靜寂はなく、靜寂をおいて、眞の富有はない~
柳宗悦「心偈」
「貪」という字は「今」欲しいともっと欲しいと抱え 込む姿です。「貧」という字は「分け与えて」自分のも のをなにも持たない姿です。我々が美しいと思い、次世 代へ繋いでいきたいと願う、謙虚で美しく飾らない飛騨人の心とは、「貧しさ」という言葉の中にすべて含まれ ているように思います。百年前、これからの時代を思って「貧しさ」と向き合った若者達がいたように、これからの百年の暮らしについて考えることが、今まさに求められています。現代は「貧しさ」が見えにくい社会です。 しかし、我々の暮らす国府の町には、縄文の時代から続 いてきた営みと、蓮如上人の伝えた「おかげさま」の心が、空気のなかに今もなお漂っているように思えてなり ません。この土地を開墾し、住み継いできた先達への感 謝を胸に、我々も貧しくとも豊かな日々を探し続けてい きたいと思います。それはとても小さな行動です。多くの人を養い、TV やインターネットで賞賛されるようなこ とではけしてありません。しかし、いつの時代も、町や 文化を作ってきたのは、お殿様や旦那衆や行政だけでな く、今日という平穏な一日が子々孫々まで続くことを願 った先達のありふれた日々の積み重ねであったのではな いのでしょうか。そして、それこそが今、我々が真に受 け止めなくてはならない「貧しさ」の姿ではないでしょうか。
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