十七冊目【フラジャイル・コンセプト】
【フラジャイル・コンセプト】
著者 青木 淳
出版社 NTT出版
行きかう空気が整うように、その場になにかを手を加える。しかし、その空気が持っている論理には、とことん身を委ねる。そうすることで、その場は、その場であるまま、別の世界に変容する。ニュートラリティが行き着くところまでいけば、その場かに自ら隙間があいて、自由な動きが生まれます。そのほころびから、今まで見えていなかった世界が顔を覗かせます。
友達に「読みました?」と聞かれたから、さっそく取り寄せて読んでみた。面白かったし、なにより彼と話してた時に出てくる言葉や思考の原石みたいなものがたくさん詰まっていてとても面白かった。そういう読書もあるのだ。ということが発見だった。もちろん普段から、尊敬する友人・先輩・著名人が、お勧めしている本には目を通すし、そこから彼らのルーツを知ることはある。だけど、身近で気の合う友人の私生活を覗くような読書は、また違った趣があった。直接話をしている人の奥行きが深まるような、いい読書だった。そうだ、読書にも色々ある。内容ではなくその本との向き合い方の違いで、色々な見え方があって、漫画から哲学や思想を得る人もいるし、難解な哲学書や専門書を漫画みたいにさらっと読む人もいる。書いてある情報は同じなのに見る人の態度によって、受け取りかたはおおきく変わる。別に不思議でないのだろうけど、今はなぜかすごく不思議な気持ちになっている。これもある意味で「ほころび」なのかもしれない。
著者の青木さんのことを僕は知らなくて、本書を読んで「ルイ・ヴィトン名古屋」の設計をした人だと知った。あの建物は、僕が名古屋に住んでいる時期に建築されて、印象深かったのでよく覚えていた。まったく知らなかった建築家が建物のイメージとして繋がる。こういうところも建築家の面白いところだなと思った。古民家に住んでいるので、そういう建築が好きだと思われている節があるけれど、僕はどちらかといえば、ル・コルビュジエをはじめとするモダニズム建築や工業デザインが好きで、やわい屋も古びたコンクリートのビルをリノベーションして…と考えていた時期もあった。なぜモダニズム建築に惹かれたというと、時代に合わせた「当たり前」をのぞむなら、表面的な装飾や形式への懐古に拠るよりは、その時代において使われる素材、思想を踏襲したものが一番望ましい。という想いがあったからで、少なくとも10年前の身の回りを思い出してみると、そういった建築のほうが圧倒的に「生活感」を与えてくれていた。その頃のぼくには「田舎暮らし」や「自給自足」というものは、複数の生き方を組み合わせて実現するもの。という認識があった。それは、なにかにこだわりすぎて排他的になることへの拒絶のあわられだった。
新興宗教を信仰している両親の元で育って、義務教育をほぼ不登校で過ごしたぼくは、世間一般の「あたりまえ」にも、世間とずれた特定の集団特有の「あたりまえ」にも、違和感を感じながら成長した。正しかろうが多数派だろうが、そのことに対して、無批判・無自覚な「常識」であれば、それはすべて「静かな狂気」に思えた。オーム真理教の事件の頃、思春期だったことも影響があったと思う。ともかくそういった経緯から、時代がどのようなことを選ぶかが興味の対象だった。そういった情報を収集するのが好きだった。そして、その裏づけとして、それらをそうさせる行動の「構造」「倫理」に興味を持ったことが、民俗学、宗教学、哲学、文化人類学の分野への興味のきっかけにもなった。どれだけ技術が発展しても人間は弱いただの人間なんだ。「なんだ、別にそれでいいんだ。もっと完璧になれると思ってたけど、このままでいいんだ。」そう思えるようになった頃、ぼくはもうひきこもりではなくて、駅前でギターをひいて歌を歌う人になっていた。「ルイ・ヴィトン名古屋」を見かけたのはその頃だ。
別にヴィトン好きでもないけど、記憶に残るくらいその建物は異彩を放っていた。だけど、いまでも覚えているのだけど、周りの人が「奇抜」だといったその外観を、ぼくは奇抜だとは思わなかった。ぼくは、その建物にぼくのイメージする「名古屋」そのものを感じたからだ。「土地の持ってるイメージ」を新しい技術で表現しているように思えた。だから、それを名古屋の人が、奇抜だというのはよくわからなかった。それは周囲から浮いていたけど、冷たい断絶ではなくて、蜃気楼の向こうの異世界といった様子だった。手を伸ばせば届きそうな幻。そして、その建物は街に馴染んでいた。十数年を経てこの本を読んで、冒頭に引用した一文を読んで、あの時の感覚に納得がいった。「あぁこういう考えの人が作ったからだったんだ」と、「ルイ・ヴィトン名古屋」も、まさに、場のルールにとことん身を委ねて、そのニュートラリティ=中立性が行き着くところまでいって、底が抜けたというか、空間に亀裂が入って、蜃気楼の向こう側と繋がった。と、いうような建築だった。
別にあの建築が好きというわけではない、けれど、あの時感じた違和感と感覚を十年経っても覚えていた。そういう経験はけっこうある。いつか、あの時の引っかかりに納得するときが来ると思うと胸が躍る。そして、その瞬間、さっきまでとなんら変わらない景色や時間に、今まで見えていなかった世界を見ることになる。ぼくはそれがあることを知っている。だから、楽しみでしかたがない。
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