たいせつなこと

「やっほー」と遊びにくる友人は、縁側で何時間か他愛のない話をして、帰り際に器を選んでいった。 「家に足りない器どれかな?」と聴かれれば、月に何度も彼らの家でご飯を食べて酒を酌み交わす僕らには、彼らの食器棚に足りないものは手を取るように分かる。 「これなんかいいんじゃない?和え麺とかに使いやすいよ」 「あー!確かにこの形は家にないね!よしこれにする!」 そして、夜にはさっそく使ってくれた美味しそうな写真が届く…。

 僕らの思い描く「器屋」の日常は、これだよなぁと思う。僕らは「もの」としての器を売ってるわけじゃなくて、対話の手段のひとつとして器を扱っている。「器」は文字通り器であって、入れ物だと思う。それは空っぽなものなのだ。僕ら配り手の仕事は、その中に「ものがたり」を積めて使う人へと届けることだと思う。

「おはよう」から「おやすみ」までの間に手にするもの、口へ運ぶものを僕らは扱っている。それはとても素晴らしいことのはずだ。どこで買っても、ものはもので、今はインターネットで翌日には届くけど、同じものでも本当は全然違う。

「機能」を満たしていることと「用途」を全うしていることは全然違う。僕らの僕らの美しいと思う気持ちを最優先に「もの」や「ひと」を見ている。そえが一般的に見て正解か不正解には皆目興味がない。正義とはその時の社会が決めることだから、それに振り回される必要も、抗う必要もない。もっと自分の内側の声に耳を傾けたい。その結果、土から芽を出すように自然と産まれてきたものに、言葉や分類を与えるのはもっともっと後で構わない。

僕らは僕らの愛すべき友人や隣人。そして、もしかしたらこれからそうなるかもしれない、訪ねてきてくれる今は名も知らぬ人々へ向けて「器」に「想い」を入れて並べます。

派手なことをやるのは簡単です。反応はすぐに返ってきます。でも、簡単なこと、平凡なことをやり続けるのは実はとても困難なことです。誰もそれに価値があるとは思っていないからです。でも、僕らは一見すると無価値なそれこそが、僕らにとって最も大切なものだと知っています。


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