七冊目 【ローカルベンチャー】
ローカルベンチャー
著者:牧 大介
出版社:木楽舎
~帯より~
人口約1500人の岡山県・西粟倉村。この小さな村で、二社で5億8千万円の売り上げを達成した著者が、2009年からの起業ストーリーと「地域でのベンチャービジネス」を初めて語った。
・ソーシャルベンチャーからローカルベンチャーへ
たぶん少し特殊なのかもしれないけれど、僕の日常では、天気と農作物の生育具合と同じくらいの頻度で話にでてくるのが、地域のこれからの話。
地方では「稼ぐこと」をあまりよしとしない空気がある。これは、集落という仕組みに「和を以て貴しとなす」という精神がセットされているからで、日本では全国どこでも同じだと思います。近年はそこに「ソーシャルベンチャー」(事業活動を成立させるための収益性を確保しつつ、同じ活動を通じて社会貢献が可能となるビジネスモデル)が入ることで、「社会貢献」という部分で「和を以て貴しとなす」の地域における再構築が行われているように思います。これからの10年、地域のトップに立つであろう50代は、旧来の「和を以て貴しとなす」の地域特有の仕組みのタガを外すことで、自由競争の原理を取り入れて、地方経済を発展させていった時代の人たちなので、地域を都会の郊外として田園都市的に捉えることで、経済発展を目指した世代でもあると思います。しかし、ご周知のとおり、都市郊外形の地方はどんどん同じような街になり、少子高齢化と相まってこれまでのやり方では利益が望めない時代になってきました。しかし、その戦後日本の流れをただの悪者には出来ないと僕は考えています。何故かといえば、古民家を壊し、田畑を埋め、山を削り、高速道路を通し、大型ショッピングセンターを誘致していった流れもまた、戦争と貧困を知る世代が平和と豊かさと繁栄を切に願った、その時代における「社会貢献」だったと思うのです。貧困の時代を知らず、過食の時代に生まれ、ミニマリズムや地方に「足らざるに足るを知る」なんて言っている我々世代とは、根本的に生きることへの向き合い方が違います。兄弟が飢えて死んだり、女工として売られていった次代は、ほんの少しまえのことです。そんな暮らしから抜け出したいという思いが生んだのが、我々の生きている「物理的に豊かで、精神的に物足りない日本」なんだと思います。
戦後の人々も今の我々と同じで、素人が手探りで地域に必要とされる事業を始めてきました。商店街の高齢の店主が、商いの基本を知らないのは当たり前のことです。親の背中を見て学んだということは、我々が産まれた時には当たり前になっていた明治以降の近代資本主義、その創成期を作ったのは江戸産まれの当時の大人です。専門学校や大学や本屋やインターネットで、誰でも経済を学べる我々の時代における「世間一般の常識」は、一昔前は「親の背中と周りの大人から学ぶ=常識」だったはずです。みんな学んだことを実直にやってきたのですが、社会がそのルールを急速に変えていくことに、順応できなかっただけだと思います。たとえるなら、パソコンのOSが新しくなっていままで使っていたソフトが使えなくなった。という感じのことが急速に起こってきたのでしょう。
「ローカルベンチャー」を僕は新しい考え方だとは思いません。科学やお金を神様のように崇める時代は、今緩やかに終わりに向かって下降し始めました。時代は、むしろ基本に立ち返えろうとしているのではないでしょうか。本書に「600人の村民が、一週間に1000円ビール代を払うとすると、600人×1000円=60万。一年50週で3000万。村外から仕入れているビールを村で作れば、これだけのマーケットはすでに存在してるから、ここにもビジネスチャンスはある」という旨のことが書かれていましたが、「この峠は越えるのに半日はかかるのに休み処がひとつもない。ここで茶とだんごを売ったら旅人は喜ぶぞ」という古来良くあった開業のプロセスと同じ話だとおもいます。そうやって地域の必然に駆られて、商店街や宿場町が生まれていったことを、現代風にいえば「ローカルベンチャー」と呼ぶのでしょう。
・移住者は「地域のために」生きてはいけない
本書の項目のひとつですが、これにはとても共感しました。「地域のために」生きるというのは聞こえがいいのですが、これは旧来の「会社のために」と同じ仕組みです。その働き方の末路を我々は見聞きしてるはずです。社に尽くしたのに自分を正当に評価しない会への愚痴。同僚、上司への妬み僻み、もちろんすばらしい会社はたくさんありますが、残念なことにそれは一部です。やりがい搾取の構造が「地域のために」働くということに構造的に組み込まれています。これは危険な言葉です。周りからも自分自身も「地域」という見えないなにかに阻まれ、操られてしまいます。本書ではそうならないように「純度の高いワクワクファーストでいけ」とアドバイスをしていますが、「純度の高い」というところに大切な部分があると思います。
・地域との関わり方は恋愛と同じ
これは僕の持論ですが、移住に限らず、起業も生活もあらゆることは「社会」とどう関わっていくのかということです。その根本が「誰かのため」というのは、後から苦しくなるケースが多いです。これは恋愛で考えるとわかりやすいと思うのですが、まず「恋愛」に正解や近道はありません。ひととひとが関わるという点ですべてが同じです。「結婚」を決める時に大切なのは、相手の経歴や家族関係をすべてをスコアにして明らかにすることではなく、目の前にいるその人と、それまで過ごした日々のなかでどう感じてきたか、という主観的な感覚です。そして、その人のことを「信じたい」と思えるかどうかです。信じられるか否かという事実じゃなくて、自分が信じたいと思えるかどうかが大切です。
長くなってしまったので最後にしますが、社会とうまく付き合ううえで、もっとも大切なことは「演じることに疲れないようにする」ことです。「演じている」と言われると、うそをついているようで嫌悪感のある人も多いですが、人間は無意識に実に多数の「自分」を演じ分けることで他者との関係を築いています。親の前の自分・友人の前の自分・恋人と前の自分・会社での自分…関わる人間の数だけ、無意識に異なった「自分」を演じてます。好きになった相手に合わせて好みを自然に変えたり、服装を変えたりしますよね。それが「演じる」ということです。それは「相手の好きなものを理解することで相手のことを外側と内側から理解する」作法です。地域との関わりにも同じ作法が必要だと思います。「演じてる自分」に疲れない為にの作法は様々ですが、ローカルで受け入れられる人には特徴があります。僕が出会ってきた限り、意識的にせよ無意識的にせよ、みんな真面目というよりマイペースな人たちでした。真面目な人は演技に疲れてしまいます。一生懸命な人ほど周りが求める役割に疲れるのです。本書ではローカルビジネスにあたって「なにかに夢中になって価値を生み出したい」という思考を良しとしています。そういった状態のときは、自分が求められ役を演じていることを忘れるほど熱中しているでしょう。そしてなにか夢中になれることなんて早々見つからないので、わがままになぜそれに惹かれるのか?なぜ必要だと思うのか?という意味を問い続ければ、どんなに小さな興味や問題も、すべては稼げるローカルベンチャーへ繋がるのではないでしょうか。
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