対話からうまれる。
飛騨産業での鞍田崇さんとの対話を終えました。
たくさんの方にご清聴いただき誠に感謝いたします。感想に変えて昨日の対話から点が線に繋がっことがたくさんありましたので、こちらに書き残そうと思います。
・今なぜ民芸なのか?
古作品への愛は過去のものだからよいと云うのではない、美しさがあるから過去を省みるまでである。今のものでも美しいものは美しい~中略~『中世期に還れ』とは『永遠さへ還れ』という意味である『古き美』はどこにもなく『とこしえに新しき美』のみである。
正しき工藝・柳宗悦
これは民芸運動の創設者である柳宗悦が1927年【工藝の美】に書いた一文です。民芸という東洋の思想が現代においてなぜ再びブームと呼ばれる状況にあるのかを鞍田さんとの対話のなかで感じたことを踏まえて考えてみたいと思います。
その為にまず上記の柳の言葉を『古作品』でなく『民芸』に変えてみたいと思います。
民芸への愛は過去のものだからよいと云うのではない、美しさがあるから過去を省みるまでである。今のものでも美しいものは美しい~『中世期に還れ』とは『永遠さへ還れ』という意味である『古き民芸』はどこにもなく『とこしえに新しき民芸』のみである。
柳の時代に新しかった民芸という価値観は100年を経て現在では【古き美】に変わっています。昔はよかったということは柳の言葉を借りれば『中世期に還りたい』ということですが、そうではなく『永遠さへ還れ』と柳は言うのです。
これは経年美と言い換えてもいいかと思います。器ではなかなかわかりにくいですが、【家屋や机、椅子】等を想像すれば経年美という使い込むほどに愛着がわくものがある。ということは現代人でも理解できる感覚です。
この感覚を【器】【町並み】【人生】に置き換えて考える時、民芸運動で柳が伝えたかったひとつのことが見えてきます。
・ありのままの自然とは。
現代で民芸が再評価されている理由である理由は上記の柳の文書が様々なことに置き換えられる点にあると思いますので、より細かく考えてみたいとおもいます。柳の文書の『古作品』を『自然』と置き換えてみます。
自然への愛は過去のものだからよいと云うのではない、美しさがあるから過去を省みるまでである。今の自然でも美しいものは美しい~『中世期に還れ』とは『永遠さへ還れ』という意味である『古き自然』はどこにもなく『とこしえに新しき自然』のみである。
【自然】を英語では〈nature〉といいますが、【自然】と言う言葉が荒野や草原などの総体的な意味である〈nature〉と同じ意味を持つようになったのは1900年前後のことです。急速に国内に入ってくる外来語を急ぎ日本語に翻訳していた時代でした。わずか100年前のことです。それまでの日本人はいまの【自然】と呼ばれるものをなんと呼んでいたかというと『山川草木』『花鳥風月』『あめつちの間にあるもの』等の(無数のものごとの集合)として捉えていました。
現在の【自然】には西洋と東洋の意が混ざっていますが、僕らはいまでも『自然』ということを考えるとき東洋的な(無数のものごとの集合)である【里山】や【里海】といった多様性の中で暮らす人々の姿を想像します。人間を寄せ付けない厳しい大自然ではなく、人間も自然のおおきなサイクルのひとつとして数える【山奥のさびれた古民家の縁側でお茶を飲む老夫婦】といった姿に豊かな自然を感じ、それを失ったことに涙するのです。あの頃は確かに貧しかったけど大切なものは身近なところにあったのだ…と。これは日本人の琴線に触れる感覚だと思います。
つまり【自然】とは、(無数のものごとの集合)がそれぞれ最適な配置に存在していて、その環境にとってそうならざる【必然】があり、それぞれがその仕組みに寄り添うことといえます。海沿いで暮らす人に山奥の暮らしはできません、逆もまたしかりです。海沿いで山の暮らしを導入してもそこである必然がありません、だから違和感があるのです。けしてそのロールモデルが間違っているわけではないのですが、どれだけ正しいことでも配置を間違えたら機能しないのです。【必然】のないところには【違和感】が産まれるのです。
そして、物事が消費されていくという感覚は、この【必然性のない違和感】から来るのではないかと思います。〈こんなに近くにコンビ二が5件もいるのか?〉〈なんでこんな田舎におおきなビル建てるのか?〉〈なんでどこの観光地にも同じお店があるのか?〉〈なんでどこの田舎にいっても同じことやってるのか?〉すべて、そこである理由やそこにあった理由という【必然性】と【役割】を忘れ、考える【主体】をなくしまったから起こった問題です。そうして不相応な道路や団地を作る為に山は削られ川は埋め立てられます。〈豊かに暮らしたい〉という住民の願いが生み出したのが、いずれ人が町に住めなくなるような消費されつくした町を作ることになってしまったのが現代です。これはとてもつらいことです…貧しい時代を生きた人達は本当に子供達の幸せを願い近代化を豊かな世界を目指して、やっとそれを叶えた時、子供達から【なぜこんなことをしたのだ、昔のままの世界をなぜ守ってくれなかったのか】と叱咤されるのです。
明治にも同じようなことが起こったのではないかと思います。江戸~明治を生きた人はたくさんいたはずなのに、その人たちは古い考えに縛られた人として歴史にでてくることはありません。 時代劇を思い浮かべるとわかり易いのですが、時代劇と任侠の時代に侍とやくざの時代は実際かなりぼんやりと移行していたはずですが、そのような切り替えの時代の姿はほとんど描かれません。そして、あたかも大きな争いを境にその後急速に近代的な時代になったように教科書は教えますが、当時の雰囲気はもっと歪なものだったと思います。そのときは東洋と西洋の転換期でした、現代は人間が神のように振舞う西洋的な時代から、人間も自然の一部として生きる東洋的な時代への転換期だと思います。
そこで、科学は捨てよう!というのはあまりに危険ではないかとおもいます。なぜなら、現代においてそれはどこか【不自然】で必然性が乏しいからです。排他的な思想で結託することはけして良いコミュニティにはなりません、人はそんなに強くないですし、すべての意思を教授することなど出来ないからです。過去おおくの宗教やカウンターカルチャーが理想郷を目指しましたが続いてこなかったことから学ばないといけません。否定でなく肯定から向かわないといけないのです。仏教ではこれを【他力】と呼び、日本人はそのような姿を【自然】と呼んできたのです。遠回りをしましたが話は最初に戻ります。
・僕らはなにを失い、なにを目指しているのか?
古作品への愛は過去のものだからよいと云うのではない、美しさがあるから過去を省みるまでである。今のものでも美しいものは美しい~中略~『中世期に還れ』とは『永遠さへ還れ』という意味である『古き美』はどこにもなく『とこしえに新しき美』のみである。 正しき工藝・柳宗悦
柳がこれを書き上げた頃にはまだ、ありのままの自然、東洋の美しくも貧しい暮らしを続けている場所はまだまだだくさん残っていたことでしょう。
なにより柳は朝鮮で先にそのことに気がついています。日本は朝鮮を国際社会に引き上げたのですが、朝鮮の為に日本人が行っていると主張していた行為は、柳の眼には懐疑的に映っていました。日本もこのまま行ったらこの朝鮮の人々と同じようにやがて西洋の考えに侵略される。朝鮮の人々は過去・未来の日本人自身の姿だ、そう見えていたのではないでしょうか。
だからこそ柳は民芸運動を進めることができたのではないかと僕は思うのです。なぜ朝鮮の友は抑圧され自身は違う立場に生き延びたのか?そこには自分自身ではどうしても説明することのできない不条理さがあります。産まれた国が違うこと、産まれた時代が違うこと、それだけでない意味があるはずだ。そう思ったのではないでしょうか、そしてそれは第二次大戦後の日本にもいえます。だからこそ、現代において、ただ『中世期に還れ』ではなく、『とこしえに新しき美』へと道を正さなければいけないと思うのです。
『永遠さへ還れ』というのは人間自身が『あめつちの間にあるもの』として自然の中に生きる過去の永遠さへ回帰することです。
少し前の日本人は貧しかったですが、里山に育てられ自然に逆らわない景色を作り出し、死んだのちはご先祖様になることが出来ました。
僕らが伝えなければいけないのは日本が守ってきた、この世界を無数のものごとの集合と捉える感性のすばらしさに気がつき『山川草木』『花鳥風月』『あめつちの間にあるもの』の世界へ還ることです。
繰り返しになりますがこの名残りが日本人には残っています。【わびさび】【もののあわれ】【枯れた美しさ】そういったものにたいする美観を民芸や茶の世界は現代に繋いでくれました。柳と同じ感覚をまだ日本人は忘れてないのです。
だからこそ、そのことに主体的に向き合い、曖昧で未完成な人間をそのまま受け止めてくれる生活に還っていかなければならない。
民芸にもそのヒントがたくさんあります。(健康で堅牢な器)は次世代まで使い継がれることに耐えるものです。使い続けられるものと歳を重ね、ある日気がつくのです。その器が経年美で美しくなっていることに、そして、それを育てたのが自分であり、その自分は変わらず愚かで仕方が無い人間だと気がついたとき、汚れている沼から蓮が咲くことを知り、救いあげられたということに心の底から打たれるのではないでしょうか。
・民芸の向こう側
そう考えると【家】はもっともわかりやすい器のひとつです。もともと家はただ雨風を避けるだけでなく、自分という人間の帰属する最小単位でした。記憶の器として人が構える一番大きな器が【家】で、社会からしたら一番ちいさいものが【家】なのです。
【一見派手でなく素朴だけどそばにおいていると心が暖かくなる皿】というのは、普通に暮らしていると、なかなかぴんと来ないと思いますが【一見派手でなく素朴だけどそこにいると心が暖かくなる家】というのは皆一度は体験したことがあるのではないでしょうか。そんなそれぞれの暖かな記憶を託せる器が食器や家具や布や籠や家のなかに見ることができるから、柳はそれを【よき友であり最大の理解者】と呼び、それを民芸の美しさの必然であり裏付けとしました。
今の時代、家や村を造るのは難しいですが、器一枚、椅子ひとつから身の回りに置くことは都会でもできます。それらを愛でて経年美と共に、柱につけた傷のように自身の傷も愛おしい思い出とすることができるのが人間らしい生き方であり、民芸はそういったことを伝えるための言葉なのです。
柳はそのような人間が人間らしくいるための答えを、【名もなき工人が作った、なんのてらいも無いただの器】に見たのです。それは、【いかに貧しく、人間的に優れていなくても、そのままで土地の必然の中でひたすらに生きていれば、それだけで美しいものは産まれてくる。】このことが救いだということです。
当時と違うのは、現代はその【必然】がとてもわかりにくくなっているという点です。繰り返しになりますが、その還るべき姿がわからなくなってきている時代が現在なのです。
しかし、まだ我々は【一見派手でなく素朴だけどそこにいると心が暖かくなる】経験を思い出すことが出来ます。
だから大丈夫です。その経験を比べることもなくただ大切にしていけばいいのです。ずるくても駄目でもいいのです、みんな不完全なんですから。
それぞれの言葉でそれぞれの場所でそれぞれの役割を必然に護られておこなう仲間が世界中にたくさんいます。けして派手ではないですが、それらは確実に人の心を打ち、未来を紡いでいくのです。柳が河合・濱田。リーチという友をもったように、同じ時代を生きる友との対話を続けたいと思います。今を生きる僕達が出来ることはまだまだたくさんあるのです。
最後になりますが、このたび鞍田さんとの対話の機会をいただいた飛騨産業の岡田さんに心からの感謝を、地元をささえてきた企業という必然をもって次の世代を育てようと尽力する姿にはいつも胸を打たれています。これからも共に対話を続けていけたらとおもってます。
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