・民藝についての個人的考察。
とある方に向けて自己紹介的に書いたものですがふと思い立って加筆修正しました。
せっかくなのでブログにのせておきます。
あくまで個人的な意見で不勉強なので憶測的なこともありますが、まぁこんな考えもあるんだな程度で読んでいただけると幸いです。
・民藝についての個人的考察
近代における「美」とは天才の「美」であり一人の優れた能力に頼る「美」とみなされていた。柳宗悦は工業化の時代の流れの中で、人間と自然の調和の復元のために努力した。柳にとって「もの」は人間と自然の調和の象徴であった。
民藝運動の創始者、柳宗悦は民藝品について以下の8つの条件を定義しました。
・実用性:鑑賞の為でなく実用性を備えている。
・無銘性:無名の職人によって作られた、名をあげるための仕事でないこと。
・複数性:民衆の需要に応じるために数多く作れること。
・廉価性:日用品として購入できる安価であること。
・地方性:色、形、模様など土地の暮らしに根ざした性質があること。
・分業性:量産を可能にするため熟練者による共同作業で作られていること。
・伝統性:先人が培ってきた技術や知識の蓄積に乗っ取っていること。
・他力性:個人の力よりも気候風土や伝統などの他力に支えられていること。
なぜこのような定義を定めたのでしょう? それを理解するためには民藝運動のおこった明治時代がどのような時代であったかを考える必要があります、簡単に述べるなら「西洋文化」が急速に日本に入り込んできた時代です。
西洋と東洋の違いにこそ柳がなにを成そうとしたのかのヒントと民藝思想がどうして現代で再注目されているのかということの答えの糸口があると思います。
東と西の違いについて考えてみましょう。
西洋の考え方の基本にあるのは「狩猟をする男性的思考」です。
狩りにでた時、集団を維持するためにもっとも必要なことはなんでしょう?それは「状況に応じて瞬時にかつ合理的に決断する」ことです。
決断とは物事をふたつに分けて善悪や優劣を判断をし、より優れたものを残す、これを心理学者の河合隼雄は「父性原理」といいました。
では反対に日本人はどうでしょう?それは「狩りの帰りを待っている村を守る女性的考え方」です。狩りに出た男の帰りを待つ村で一番大切なことは「狩りから帰ってきたときに安心できる場所を維持する」ことです。
守る為には合理的な決断よりも、むしろ柔軟な協調性を大切にします。これを母性原理といいます。
この両者は表裏の性質をもっています。
ではなぜそのようなおおきな違いが生まれたのでしょう?東洋だけが特異なわけではありません、例えば古代アイルランド・ケルト人の暮らしぶりや思想・宗教観は日本の縄文時代とよく似ています。これほど離れているのになぜそのようなことが起こるのか。
それは、父性・母性原理が【環境】と密接に関わっているためです。 科学の発展により人がどこでも暮らせるようになったのは極めて近代に入ってからです。
それ以前は人のくらしは環境に大きく左右されていました。
そのため自然の恩恵に守られ育てられて暮らしていた地域は【母性】が強まり、自然の猛威から人が逃れるように暮らしてきた地域では力の側面である【父性】の原理が強まりました。
自然豊かな地域では男性より女性が神格化されます。日本の神道も天照大神は女性です。琉球では巫女が力を持ち、イタコも女性です。それは豊かな自然への敬意=産み出す力への敬意、子を産み出す女性は尊い存在ということです。
反対に父性原理では子供・女性・お年寄りは弱く狩りには参加できない弱者という図式になるので、ひとりでも勝ち残る男性的な強さが重要視されていきます。
この原理は国家宗教の誕生という歴史のおおきな流れのなかで膨れ上がり基督教によって今日の西洋文明=近代文明の根底になっていきます。
ふたつの原理を比べてみると…
【父性】 【母性】
遮断する : 包容する
個人の確立 : 場への所属、均衡の維持
指導者 : 調整役
直線的 : 循環的
言語化 : 非言語化
進化による変化: 再生による変化
この対比を見るだけでも、これからの生きかたのヒントになるとだと思いますが、話をさらに続けると、近代の発展は自然科学の発展とともに進みました。自然科学とはいうのは、ものごとを客観的に観察することであり【神は人間から完全に離れたところから人間を見ている】という、その神の目線に人間が立つところから生まれました。
日本人は自然に恵まれ海に守れて生きてこれたので主観的観察は必要ありませんでした。主観と客観が入り雑じったなかで、人も自然のシステムの一部として暮らしていたのです。
しかし、ヨーロッパの基督教では、神の変わりを人がするようになり、この延長戦上に、自然科学が明確に打ち出されていきます【神と世界】を【人間と自然】に置き換えた考えを利用して科学は産まれその力によって近代の人間は「神として自然に対抗する」力を付けていったのです。
しかしこのような進化にはやがて無理が生じてきます…なぜかと言えば
【遮断によって個人を確立し指導者を選び、直線的で言語化された進化による変化】
これが父性原理に裏付けられた近代のあり方です。(少々極端ですが)
【包みこまれることで場へ所属し均衡の維持の為にそれぞれが調整役を担い、循環的で非言語的な再生による変化】
母性原理に裏付けられたのがこちらです。
今の時代を生きる僕らの目指したい未来はこちらではないでしょうか?
そしてそれは日本人がもともと当たり前に行ってきた営みの中に分類されず言語化もされませんでしたが内在していた仕組みにほかならないのです。
さて、ここまでのことを踏まえて最初の民藝の話に戻ります。
もう一度8つの定義を見てみましょう。
・実用性:鑑賞の為でなく実用性を備えている。
・無銘性:無名の職人によって作られた、名をあげるための仕事でないこと。
・複数性:民衆の需要に応じるために数多く作れること。
・廉価性:日用品として購入できる安価であること。
・地方性:色、形、模様など土地の暮らしに根ざした性質があること。
・分業性:量産を可能にするため熟練者による共同作業で作られていること。
・伝統性:先人が培ってきた技術や知識の蓄積に乗っ取っていること。
・他力性:個人の力よりも気候風土や伝統などの他力に支えられていること。
これを、エピソード風に書くと…「ある日見つけた器、一見すると野暮ったいが使ってみると使いやすくて食卓にも馴染む、しかも頑丈だ…こんないいものはさぞ高いものでろうと作り手を探し尋ねてみたら、昔から職人が分業で作っており、その地域で普段使いをしている大量生産のもので、長く作られているので技術も高くその付近で採れるものを利用しているのでコストがかからず、また田舎の暮らしではお金が都会ほどはかからないので驚くほど安価で売っていた」ということになります。
柳たち民藝の同人は上記のような体験から、8つの定義を生みましたと思うのですが、それはなんの為だったかといえば、明治時代は急速に西洋の文化が入り込んできた時代であり母性原理が父性原理と静かに激しくぶつかった時代でした。
民藝運動の根底には、そういった西洋化によって失われんとしていた、東洋の思想。【人と自然との調和】を取り戻そうとした柳の想いがあるのではないかと思います。
民藝が近年注目されているのも、自然科学の分断や遮断の力が大きくなりすぎたので正反対の性質の循環型の性質を持った母性原理に裏づけられた民藝の性質を多くの人が無意識に求めているからではないでしょうか?
【包みこまれることで場へ所属し均衡の維持の為にそれぞれが調整役を担い、循環的で非言語的な再生による変化】
こんなコミュニティが実現したら素晴らしいですよね、もちろん弊害や問題はたくさんあります。
しかし人間は過去に習うことができます、過去に何度となくこういった波が起こってきました。帝国が生まれた時に生まれた仏陀・ローマ帝国に対するキリスト。帝国主義に対する白樺派や民藝運動…幾重にも重ねられていた歴史はおおきな財産です。
回顧主義にも、批判精神にも頼らないものごとの考えかたを民藝をはじめとする東洋的思想は教えてくれます。
民藝に興味があるのなら、初期の仏教や初期のキリスト教、アイヌや琉球やアボリジニなどの少数民族…おなじ倫理感を持つ思想や宗教は星の数ほどあります、それらを知れる範囲で、詳しく人の眼や言葉に頼らず自身の五感で学んで実践してみてください。
きっとどの考えも素晴らしく、別にどの考えも根は同じなのだからひとつに頼らなくても人は生きていけるのだと感じることが出来ると思います。
僕らは学校で西洋式の考え方が正しいものだと習っているので、どうしてもその仕組みを使ってしまいますが、それが一番簡単なことを難しくしてしまうのです。
だけどそれしか思考の道具はないのですから徹底的に分けて調べて排他的になればいいんです。そしてそれの無意味を心底学んで、きれいに並べたパズルをぐちゃぐちゃにしてしまえばいいのです。言語化できなくても大切にしてるものがあると思います。
それはたとえば【どうしてあの人のことが好きなのですか?】ということです。
これには多くの要素が複雑に絡んでいます。西洋に習えばすべての要素を取り出して、比較し合理的に研究し専門の知識を投入して説明を試みるでしょう、もしくはそんなものは非合理的だと遮断するかもしれません。東洋で言うなら、「そんなことはわからないけど好きだから、そういう気持ちを大切にしたい、根拠はないけど信じてる」ということになるでしょう。
なにも解決はしてませんがこの方が日本人にはしっくりくるのではないでしょうか?
この話全体も【よいものはよいのだからいいじゃないか】だけで済むことをこんなに言葉を使って説明しなければ伝わらないのです。
本当はあなたが感じ取っていることがすべてなのです、答えは外でなく自身の内側にあります。まぁ外とか内という物事を分ける考えがそもそも西洋的ですので問題の根はここにあるのですが…この話はまた長くなるのでやめときます…
最後になりますが、よい仕事やよい場所・よい人というのはすべて【よい自然と相違がないもの】と言うことです。
ここにいう自然とは【人間と自然界】としての自然ではなく、『自ずから然る』という漢字本来の意味の「じねん」ということです。
人と自然界の遮断されない混然一体とした自然とは、前人未到の平原や大海原や大湿原ではなく、人が自然の一部として生きていた頃の、いわゆる里山の暮らしの風景のことです。
古民家や童謡ふるさとを聴くと懐かしい気持ちになると思います。経験したことはなくてもです。それが自然の本来の姿です。 よい仕事、よい店、よいコミュニティ…居心地が良いとはそういうことだと僕は考えています。 そしてそれはけして、ひとりでは作れず、僕が作り出すものでもありません。 それは自然に湧き上がってきたもので、誰のものでもないのですから。
東と西の融合…民藝の目指したものは、合理性と東洋の考え方のハイブリッとだったのではないでしょうか。 そして当時は不可能だったそれは現代なら可能なのだと僕は思います。 工藝ギルドのようなコミュニティも、太陽光発電や小水力発電等によるエネルギーの自給、インターネットを利用した情報発信に物流システムの進化によって、当時の日本よりはるかに小さな力でどこでも実現して暮らせるようになっています。
今の時代の民藝を作り出すのは僕らなのではないでしょうか?回顧主義に頼らずとも、見えない神様に縋らなくとも、うつくしいものが近くにあって、豊かな山や川がそこにある。
神様にならずとも僕らは貧しく豊かに暮らせるのではないでしょうか?
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