一生ものなんてない。

「うーん。。少し高いけど、一生ものだと思って買います!」そんなセリフを時折耳にする。その度に僕は少し時間をいただいて「一生もの」についての考えを話す。どうやら現代人は「一生もの」という響きが好きらしい。だけど、少し、「一生もの」に関して誤解がある場合が多いような気がする。

一生とはどのくらいの期間を指すのだろう?日本人の平均寿命は84歳。37歳の僕にとって一生は残り50年くらいということになる。大体、器を自分で買いに来る人は20代後半以上の年齢である事が多いので、約半世紀使えたら「一生もの」と呼んで差し障りないだろう。それでは陶器やガラス、木製品がどのくらいの期間使用できるのかと言えば、現存する日本最古の陶器はご存知の通り縄文時代にまで遡る。つまり陶器は約1万2000年使用することが出来る。立派に一生ものと呼べる。ガラスの歴史はそこまで古くなく、木製品はそこまでの長期間使用することは出来ないけれど、それでも今、店頭に並んでいるものは、どれも半世紀は確実に物体として存在する事が可能な「一生もの」ということになる。

使用し続けられるという事を「一生もの」の定義だとすれば、世の中の大半は「一生もの」だと言えることになるが、一般的にそのワードが用いられる際そんな事が言いたいわけではないはずだ。「一生もの」が乱立する現代において、その言葉のおおよその文脈は、「丈夫で長持ちなもの」という事と「手間を惜しまず作った良いもの」という2点に集約されるだろう。

「一生もの」が、上記の2点を含んだ言葉として使われる場合、手仕事を扱う我々にとって問題になるのは、「丈夫で長持ち」のほうだ。丈夫さと長持ちさというのは、そもそもが「相対的」な物事だ。使用環境や使用頻度によって変化するし、微塵も汚れず傷もつかない状態を理想とした場合、陶器も木製品もシリコンコーティングされたモノや、プラスチックやステンレスで作られたものの方が「丈夫で長持ち」に決まっている。しかし、ただ汚れないつるんとした頑丈なものを「一生もの」とは呼ばない。

「丈夫で長持ち」この文脈が当てはまるものは、ハイスペックな工業製品やデザイン家電、シロモノ家電や高気密高断熱住宅のような「最新技術を惜しみなく使用して作られた」ものだろう。この「技術」の幅は非常に広く、手仕事でしか出せないテクスチャーから、逆に現在時点では高価で希少な機器を使用して作られるものまで、「時間と手間がかかる=コストが高いもの」として、曖昧なままそのすべてを含んでいる。

しかし、おそらく多くの人の人生最大の買い物になるであろう住宅ですら、約30年で社会的な価値はほぼ0になる。当時の流行は今や「時代遅れ」で、時代が近いだけに古くも新しくもなく、味が出た訳でもない。住宅に限らず、家電も車も軒並みそのような時間軸で消費されるものがほとんどだ。しかし、そのようなものであっても「一生もの」と、いう謳い文句で広告が打たれている。しかし、本来の「一生もの」には、「普遍的なもの」という点が含まれていることを忘れてはいけない、こと最近の「一生もの」と名付けられているものは、誰かが一生涯使ってきたという事実に即した言葉ではなく、甘美な謳い文句で、高コストあるいは低コストのものをいかにも高コスト=手間をかけて作られたように”見せかけて”販売しているに過ぎない。これは、消費社会の宿命だろう。あまりにも消費速度が早く、「一生」の定義も長さも刻一刻と更新されているのだ。

では、「一生もの」は、存在しないのかというと、それは否であり、確かに世界には「一生もの」と呼ぶにふさわしい普遍的な物事が多数存在している。そこから学ぶ「一生もの」の定義は、持ちやコストという費用対効果の話ではなく、「想いが付与されたもの」あるいは「愛着を持って接することのできるもの」そのような物事を、「一生もの」と呼んで、個々人が愛用しているのだ。後発の「一生もの」は、そのようにして誰かが培ってきたストーリーをちゃっかり拝借して、憧れというエッセンスで中毒的な味付けをされたもので、本来のそれとは似ても似つかないものを指している。「一生もの」とは、言葉を持たない道具がまさに”ものがたる”ことを指すのではないだろうか。それは例えば、作家の話を聞きながら窯元で選んだマグカップや、恋人からもらった手編みのマフラーや、祖父が長年座っていた椅子や、小学生の頃遊んでいたレゴブロックや、長年住んできた自宅。そういうものであるはずだ。そのいずれものが本来、自分の中での物語であって、それを利用して大量生産で利潤を得ることとは、本来対極に存在するもののはずだ。

つまり、もの自体の堅牢さや手間の総量などといったスペックは、まったく関係なく、愛好していた時間の長さも関係ない。社会学者のブルデューは著書「ディスタンクシオン」の中で、「運命の出逢いというものは存在しない」と、痛烈に説いたが、それは、我々が「偶然」選んだり出逢ったと感じる物事との出逢いは、神の啓示や自分自身の高い感性から得られたものなどではなく、自分が選択し所属する社会集団が無意識の中で共通言語として扱っている物事が用意されたテーブルの上から、「選ばせられている」に過ぎないということを意味している。ブルデューが執拗にそのような「運命的な出逢い」を否定したのは、他者から与えられた情報をまるで自分が、自分だけが理解して価値を感じる事ができているのだ。という欺瞞が、人類史において数々の凄惨な事件やイデオロギーの温床となったことを深く自戒していたからだろう。「一生もの」もそれと大差はない、「すごい人だから一回話聞いてみてよ!」と執拗に儲け話を誘ってく奴が紹介してくれたインチキ商材となんら変わりないのだ。


そのような勘違いの根底には、「高い=長持ち=コスパがいい」という図式が常識のように居座っている事がわかる。これは安価で堅牢なものが、簡単に購入できるようになった現代の弊害の一つかもしれない、例えば最新のテクノロジー満載のハイブリットカーは、確かに上記の方式が当てはまる、その場合、「手間を惜しまず」というのは、時間をかけて開発された革新的技術やデザイン性を指している。しかし、手仕事の場合、「手間を惜しまず」は、古い仕事のやり方で時間をかけて作る事や、古くから受け継がれてきた伝統的技術を指すもので、ハイブリッドカーではなく、むしろレトロカーに近い、さて、1千万円で車を選ぶとして、レトロカーはハイブリッドカーと比べて「長持ち」だろうか?同じように「手間を惜しまず」にも、色々とあるはずだ。あるはずなのに、杓子定規に当てはめて「普段使いで一生涯使える=コスパがいい」と考えるのであれば、それは単純に「自分しか気が付いていないこの物のよさを早く独り占めしたい」という消費者真理をうまく突かれ、言葉に踊らされているに過ぎない。本当に大切なものは誰かにみせびらかして承認欲求を満たすようなものであってはならない、大量消費を煽ることで、日本は確かに豊かさを手にしてきたが、その影に置いてきてしまったものを、今一度考えなければいけない。その際に、「一生もの」や「エコロジー」のような甘美な言葉には特に注意が必要だと思う。

その意味で、誰かに向けて発せられる場合において「一生もの」という物は存在しないのではないかと思う。もちろん50年使用できるということであれば特に問題はないだろう。しかし、繰り返しになるが、それは「一生もの」とは呼べない。しかし、誰に言うわけでもなく自分の内なる想いを託す「一生もの」は、確かに存在しているのだ。それは、比べることのできない唯一無二の存在であり、決して貨幣で消費されることのないまさに本物だ。しかし、それはたくさん売れるものでもなければ、大衆に支持されるものでもないだろう。エコだからそれは、「一生もの」です。と、言葉にした瞬間に色を失い、言葉だけの存在として消費の側に回ってしまう、そんな強くて儚いものだと僕は考えている。

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