キムの匙。

「僕ものづくりしてるんです。」産地でお店を営んでいるので、そういうお客さんが意外と多い。お店を初めて五年お店を訪ねて来られた際に、ものを作ってるんですと言って、実際に自分の作ったものをその場で鞄からさっと取り出して「どうですか・・・」と神妙な面持ちで見せてくれたのはキムこと木村くんだけだった。

僕らがものと対峙する時、技術面に関しては、最低限使う人のことを考えて作られていれば合格だと思っている。人にはそれぞれ個性がある。だから、僕らのアドバイスは常に、自分だったらこう思う、この方が使いやすいと思う。という話でしかない。その事と大衆に受けて売れるかどうかというは、実はあまり関連がない。

だからこそ、ものを介さず語られる作り手の想いを聞かされても、とりわけ初対面のお客さんとして来店された人にそんな事を言われても、適当な相槌を打つ他に手がない。行っていることが正しいことと、売れることの間にもまた関連はあまりない。どうしようもない人が美しいものを作ることもあるし、真面目だからといって良いものを生み出せるわけでもない。イチローと同じ量を練習したからとってイチローにはなれない。今度来る時は作ったものを見せてくださいね!そう声かけをしているが、その後、本当にものを持ってきた人は、これまで数人しかいない。

僕は彼らに何をしてあげられたのだろうか?と、時々考える。しかし、明確な答えはひとつしかない。僕が気に入ったものを買い取って売る事。シンプルにそれだけなのだ。あるいは気に入ってなくてもそれは同じだ。そこになにか光るものがあると感じたなら(あるいは、そう勘違いさせるのも才能だと思う)。喜び勇んで買い取って自慢げに店に並べるのだ。たとえそれがそれから数年間まったく売れなかったとしても、それは、まだ”その時”ではないというだけで、自分のその瞬間の選択を後悔したりする必要はない。

随筆家の白洲正子が、生前こんなような対話を遺している。「どうして美しいものがわかるのか?とみんな私に聴いてくるけれど、美しいものはいつも向こうから飛び込んでくる。私はそれを受け止めているだけ。みんなキョロキョロとしてしっかり前を見てないから、いつもそれを取り逃すのよ。」それを聞いていた対談相手の河合隼雄が「あぁ、それは野球の守備と同じ感じですねぇ。」と、いつものとぼけた感じで答えていたのが、なんとも愉快だった。

きっと、あの時、作ったもの鞄から取り出せなかった人たちは、飛んでくるボールを掴もうと、いつも懸命に走って追っかけている人なのだろう。もちろん、それでボールを見つけることもあるだろうし、その努力をかってくれる人も多くいる。でも、僕は僕自身の振る舞いと同じように、怠けていると罵られても、もっと走れとどれだけ言われても、じっと構えて、ボールが飛んでくると信じた方を見据え続けたい。来るかわからないボールがその方角から飛んでくると信じられるのは、あの日、キムの匙が手の中に飛び込んできたからだ。それが生涯一度のまぐれでも構わない。僕は、今日もお店の扉を開けて待っている。「僕ものづくりしてるんです。」と、いささか緊張した面持ちで訪ねてくる若い人のことを待ちながら。

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