見てる知ってる考えてる。

ついさっき【見てる。知ってる。考えてる】という本のタイトルを眼にして、即予約した。

著者は10才の哲学者で学校へ行かないことを自発的に決めた子どもと書いてある。
ふと自分の子どもの頃を思い出した。

僕は不登校でまともに学校へ行かなかったけど【行けなかった】と思うことは今もない。心境としては【行かなかった】だ。

周りには本当に迷惑をかけたけど、10才程度の子どもが【行きたくない】ということを真正面から受け止めてくれて【行かなくてもいい】としてくれたことに感謝している。
あのときは大分意固地になってたけど、自分の意見をきちんと伝えたら理解してもらえると知った。自分にも他人にも嘘はつけないと知ったが、それは今の自分の根底にある考え方かもしれない。

不登校後の10代20代は本当に迷っていて、たくさんのことを批判したり、吸収したりしたけど、もっとも影響をうけたのは童謡作家【金子みすゞ】の言葉だった。

当初は【弱いもの】の気持ちに寄り添う言葉とおもって読んでいたけれど、最近になってその【弱いもの】はみすゞ自身、又それを読んでる僕ら自身の方なんだと思うようになった。10年読んでいても発見や驚きがあり学ぶ喜びはそこにある。

僕らはテレビやラジオや新聞で見たことを知ったように錯覚する。
そこには相手の立場にたって【考える】ことが圧倒的に足りてない。
そこには自分自身の陰陽まざった複雑な心境を通して【考える】ことが圧倒的に足りてない。

芸能人になれる方法、楽して稼げる方法、恋人ができる方法…そういったものは【ありえない】と一笑する人が、健康法や教育法に熱心になりすぎて、不健康そうな顔してたり子どもに考えを押し付けたりしてるのを眼にする。

僕らは今一度【見て、知って、考える】ことを取り戻さなければいけないのではないだろうか。

親や子どもや友達ですら嘘をつく、誰が悪いか犯人探しをすることは楽だけど、本質的な解決には繋がらない。
犯人が誰かより、なぜ罪を犯すような立場に追いやってしまったかを議論すべきだ。
そこには他人事にして責め立てることでない、我こととして考える立場が求められる。

知識は他者を比べて貶めるものではない、偉そうに壇上から投げ掛けるものでもない。知識とは、畑の【肥料】のように適正な量、適正なタイミングで必要に応じて伝えるものだ。

多すぎても少なすぎてもダメ、難しいけど向き合う価値のある世界だ。
大切なことなんて大抵めんどくさい。

10才の哲学者の本到着が楽しみだ。


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