わかりやすいことは苦手。

ぼくは「わかりやすい」ことが得意ではない。

 多くの人に受け入れられることは一見良いこと尽くしのように思えるけれど、少し違う。
わかりやすさを選ぶことで失われる機微な部分があり、その部分に物事の個性や味わいが隠れている。でもそれは地味でわかりにくいものだし、そもそもそれらに法則性や定義は存在しない。
大根が一本一本形も味も違っていて、それに一つ一つの根拠や理由を説明するのが難しく無意味なように、「わかりにくいこと」に、なんらかの意味を求めることは不要なことだとぼくは思う。

わかりやすさの弊害を考える時、味覚に例えて「うまみ調味料」と、わかりやすさの類似性について考えると分かりやすい気がしている。
みんなが「美味しい」と感じる味は、グルタミン酸で作る「旨味」で、簡単に感じさせることが出来る。しかし、それが旨味の全てではないことを我々は経験から知っている。
昆布で出汁をとったお吸い物の奥深い旨味を、採れたての新米の噛むほどにじわっと染み出す甘みを、我々は知っている。

うまみを感じること、美味しいというのは直感的で分かりやすい。わかりやすいからこそ、安易にその刺激にのみこまれやすい。
別に添加物が悪いと言っているわけではなく、それもあって、これもある。という住み分けが必要だという話なのだ。

いくら旨味を化学的に効率的に作れたとしても、街中の飲食店や家庭の料理の味付けが、すべて「うまみ調味料」に頼った味付けになることはあり得ない。
けれども「わかりやすいこと」は往々にして、そのように街を染めていく。「儲かるのだからいいじゃないか」「誰にも迷惑をかけていない」「手抜きしたってどうせ一度しかこないお客だから気がつかないだろう」わかりやすいことは、常に合理的に世界を染めていく、それは「美味しければ少しくらい身体に悪くたっていいじゃない」というような目の前の利益や心地よさで満たされている。
気が付いた時にはどこも同じような顔をして、同じような品質のものを同じような価格帯で販売している。
それらは派手で、目立つことが重視され、奥ゆかしく控えめな旨味は消え去り、一口でガツンとくる味付けで彩られ街に溢れる。

それは簡単に安価に大衆の支持を集められる事かもしれないけれど、なんとなく違う。
それを違うと感じる感覚を僕はなによりも大切にしたい。


 ぼくらの営みを通して話をするならば、「古民家の活用」というと、カフェやゲストハウス、またはそれらの複合形が主で、ぼくらのような「山奥の集落で器と古本だけを売っている」というのはイレギュラーな存在だ。
「場所が余ってるならカフェや宿をやればいいのに。」という意見は創業前から度々いただいてきた。しかし、最近その傾向に変化が見え始めている。

「ここはそういうことをやってないからいいんだよね。」

そう話してくれるお客様がちらほら現れだしたのだ。これは4年前は考えられないことだった。

ぼくらとしてはそれを意識してこれまで細々とした商いをおこなってきたので、その成果・・・と思いたいけれど、きっとそうではないだろう。

「わかりやすいことは、やらない。」


というのは、我々夫婦のここ数年の合言葉だった。その想いが届き始めた・・ということではなく、様々な「わかりやすい」ものが増えたことで、「わかりにくい」ことを頑なに守っている人やものへ価値が反面的に浮かび上がってきたのだと思う。
それは、うまみ調味料で味付けられた食べ物に慣れた舌が、そのわかりやすさに疲れて、シンプルで素朴な味の奥ゆかしさを求める人が増えたことと同じことだろう。

「わかりやすい」ことを始めるということは、「あぁ、なるほどカフェとギャラリーと宿で生計をたててるんだな。」と、簡単に理解されるようになることを意味する、それは一つの雛型となり、簡単に真似することが出来るようになることを意味する。(本当はできないのだけど、出来そうだと、誤認させることでブームは拡大する)誰でも少しの勉強で身につけられる技能で起業できる業態を複合的に束ねるということはそういうことだ。

あるいは時間をかけ「医師の営むカフェ」「鉄工所の営み宿」のようなニッチな掛け算でサービスが提供するなら話は別だが、専門的で有資格のニッチなスキルはない場合、安易にわかりやすいことに手を出すのはあまり得策とは言えない。

多くの「人生の楽園的」な、営みを欲する人が陥ることだが、都会から田舎に来て生計をたてるなら、あるいは転職して新たな人生を始めるなら、本当はそれまで続けてきた仕事のスキルを絡めた業種で新たな掛け算を生み出すことが望まれるのだけれども、それは、相当に難しく容易なことではないので、そんなことより「わかりやすい」・・例えば、蕎麦屋やパン屋や民泊などの人目を引く今時の事業をやりたがる。

そして、それは「うまみ調味料」の味付けと同じように、どこででも誰にでも出来て、なんとなくまとまっていて、不味くはないけどなんか味気ない‥そのようなものにしかならないノフだ。

街にどれだけそのような場所が出来ても、むしろそのような場所が増える程に暮らす人のに喉は乾き、刺激や水を求めて彷徨うようになる。ほっとできる場所は少なく、噛みしめる旨味を持った場所は少ない。
それはかつて商店街が大型ショッピングセンターとコンビニという「わかりやすく」「便利」なものに鞍替えをして、結果として全国どこでも同じような景色を生み出したことと似ている。

こういったことを書いていると、「ホンモノ志向」の人々から、ご意見をいただくことがあるのだけど、ぼくは「うまみ調味料」を使わず、出汁から味を作るような場所や人々のことを「ホンモノ」と呼ぶのはいささか安易な気がして苦手だ。
ホンモノはニセモノの対義語でしかなく、それぞれが個々の工夫で生み出す味や技術の複雑さを、一言で「ホンモノ」という窮屈な型にはめてしまうだけでなく、生き生きとした個々の生き様は、「ニセモノ」を駆逐する為の武器のように扱われてしまう。僕はそれに違和感を感じる。

この世にはホンモノもニセモノもない。それを決めるのは個々人の意見のようで、実はそれを取り巻く「環境」や「構造」の側にある。生活用品のすべてが手工芸品だった時代はそんなに昔の話ではない。その頃は長く使えて軽くて清潔感のある工業製品はキラキラ輝いて見えたことだろう。

その時点では昔からの作られたものは薄汚れて映った、だからみんな「わかりやすい=清潔なこと」へ飛びついた。豊かさは非常にわかりやすい。そして、それ自体には罪はない。

その時代時代のわかりやすさ、便利さに飛びつくことで生じる「違和感」を頑な姿勢で発信して続けてきたのが雑誌「暮しの手帖」だ。1948年から今日まで変わらぬスタンスで情報を発信し続けている。
その姿勢は消費者目線であると同時に、無意識に無知にものを選ぶ消費者に対しての苦言や提言であり、その厳しさは製造元に対しての意見と同様に厳しく述べられている。
「ホンモノ」であっても使いにくくてはいけない。「ニセモノ」であっても日々手が伸びる使いやすさもある。そういった割り切れないことを無理に言葉やデザインにすることは必要ないとぼくは思う。
「ホンモノ」もまた、「わかりやすい」ことと紙一重なのだ。

 最近、我が家では台所のたたき土間をコンクリート打ちに改装した。新しくなった台所、その快適さ使いやすさに驚いている。
これまでは土間に直接置いたものはことごとく湿気にやられてカビたし、常に何か虫が走り回っていた。それは自分たちが望んで選んで土を打ち手に入れた「ホンモノ」だったから、不便さにも愛があった。
しかし、この家で暮らして6年。愛着よりも不便さが勝るに至った時「ホンモノ」の使いにくさに対しての愛着が、利便性に取って代わる瞬間が来た。今、僕はコンクリートの土間を「ニセモノ」とは思わない。味気ないものだとも思わない。とても便利で快適で精神的安住を届けてくれたものだから。

ホンモノもニセモノもパッと見ただけで割り切ることは出来ないと心からそう思う。
素材にこだわっていても美味しくないなら魅力はないし、ジャンクな味付けでも友人とみんなで食べたら美味しい。

ただ目の前のことだけを見て割り切ることは安易に「わかりやすさ」に染められてしまうことを意味する。わかりにくさは「頼りなさ」とも言い変えることができるけれど、弱く頼りない人はどうしても安易なこと、わかりやすいことに流されやすい(大衆的という意味でなく、それぞれのキャラクターの雛形に合わせやすい)

ぼくらは、それらの型にハマらない頼りないバラバラなものを一丸として魅せていくことに意味があると信じている。

仮に、ここでしか輝かないことがあって、ここを出たらゴミのようになってしまうものだとしても、それはそれでいいのだろう。真夜中の幻みたいな呑み屋でのよく思い出せないような時間でもいい。うまく言葉にならない曖昧なことが世界を支えているのだと、ぼくは信じている。

未来に対して明確な正解を見出せない現代においては、わかりやすいことより、むしろ、分かりにくいことの方が細く長く続くコツになるのではないかと思う。
モデルのいない時代において「わかりやすい」ということは、相当な速度で消費されている。

先月の流行りが今月には廃れることもあるし、自然災害等も頻発する昨今において、最初から大きく勝負に出ることはあまりにリスクが大きすぎる。

大切なのはそれこそ昔のように、誰かが必要とすることと自分のできることのバランスを見極めて、腰をすえてじっくりと小さく生業を作っていく。そんな時代なのだと僕は思う。

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