十六冊目【飛騨 よみがえる山国の歴史】

【飛騨 よみがえる山国の歴史】

著者 森浩一・八賀晋(編)

出版社 大巧社


粟田道麻呂は天平神護元年(765)に和気王の謀反に連座して、飛騨にながされ一院に幽閉されたと「続日本記」に出てきます。この粟田というのはたいへん外国語に堪能な氏です。~道麻呂も新羅史が博多津に来着したときに、おそらく通訳として派遣されています。その為、飛騨に流されたというのは、新羅との関係があったのではないかと考えられます。


ぼくらの暮らす地域は一体どのような歴史のうえに成り立っているのか、足元には知らないことがたくさんあります。そのすべてを知ることはもちろん無理なのですが、その一端を学ぶことは出来ます。そして「解る」ということはそれによって自分が変わることをさします。「知る」だけでは人は変わりません。「解った時」解る前の自分と、解った後の自分は、違う自分になっています。そして、観える世界も変わります。それが「解る」ということだと思います。自分の暮らす土地にどのような人が暮らし、どのような文化を育んできたのかということは、「あたりまえ」の日常のまったく違う姿を教えてくれるのです。

ご存知の方も多いかと思いますが、飛騨はかなり古い時代の書物にもその名前が出てきます。年号がはっきりしているものをいくつかあげると…教科書にも出てくる「壬申の乱」(672)この際、天武天皇に敗れた大友皇子は処刑され、見方した豪族等が死罪や流刑になりました。その中に新羅の僧「行心」(別の書物に、異なる時代に「幸甚」という新羅の僧の記述もあり、同一人物ではないかと言われています。)を飛騨の伽藍に流刑にした。と「日本書紀」に書かれています。「伽藍」というのは、僧侶が集まり修行する清浄な場所の意味なので、西暦600年後半には、この山深い飛騨の地に、天皇の側近の新羅の僧を「殺すのには惜しい僧だから流罪」となった行心が、身を寄せる仏教施設が多数存在していたということになります。冒頭の引用の粟田道麻呂も100年後に同じく流罪となっています。今から1300年以上前に飛騨には新羅(朝鮮最初の統一王朝 (?~935)しらぎ・しんらとも呼ぶ)との関わりがあったのは間違いないのです。

ちなみに「飛騨」という漢字は行心の息子で僧であった隆観が、大宝二年(702)に、神馬を献上して、流罪の刑を解かれ都へ戻っているのですが、その神馬が龍馬、つまりペガサスであり、「飛ぶ馬」から「飛騨」になったとの説があります。もちろん本当に飛んだ訳でなく、飛ぶように早い馬だったということだと思います。ちなみに「飛騨」の「騨」なんですが、正式には旧漢字の「飛驒」が正解です。この「驒」という字は漢音では「タ・タン」と読むのですが、呉音(中国南方系の字音に基づくといわれる音。「男女」を「なんにょ」と読む類)では「ダ・ダン」と読むので「ひだ」と読みます。

飛騨地方では他にも新羅との関係を伺わせる瓦等が出土しています。太古の時代、日本海側から大陸の人々が山国にまで入ってきて生活していたのは間違いないようです。岐阜県加茂郡の富加には、日本最古の戸籍が残っていますが、そこに「秦」の名前がたくさんでてきます。秦性については様々な説がありますが、大陸から日本に渡来した民族で、大和朝廷時代に日本の政治・文化におおきな影響を与えた一族です。歴史教科書ではほとんど書かれませんが…さて、その富加の近く不破宮へ、天平一二年(740)に聖武天皇がやってきた時に、飛騨の楽と新羅の楽を奉納した。ということが「続日本記」に書かれてます。やはり、飛騨と新羅には深い関わりがあったのでしょう。ちなみにお隣、長野県の高井郡と呼ばれる地域には高句麗の人々が暮らしていたことが解っています。そして、今の善光寺周辺には百済の流れの人々が暮らしていたようです。ワサビが有名な安曇野では、各集落で船の形の山車を曳航する祭りがあります。海のない長野でなぜ船を挽くお祭りがあるかといえば、安曇族は海人と呼ばれた海遊民族の末裔だからです。安曇野の中心に穂高神社があります。「ほたか」は古事記によると「ワタツミ(綿津見神・綿積神)の子で阿曇(あづみ)氏の祖とあります」ワタツミとは「海」のことです。なので安曇野の人たちが「あづみ」の祖である穂高神社をお参りするのは当然のことです。だけど、現代を生きるぼくらには、そのような過去のことはお構いなしに暮らしています。そして、知らず知らずのうちに千年以上昔から脈々と受け継がれてきたものを「無意味」であるとして、忘れてしまいます。それらは本当に無意味だったんでしょうか?確かに現代社会からしたら非効率であるかもしれません。しかし、千年以上の長い間、形を変え継承されてきたものは、もはやそこに暮らす人々の身体の中心に存在する心のようなものになっているではないでしょうか。

日本人が一番最初に鉱物資源を利用したのは、飛騨で採れる「黒鉛」であったのではないかといわれています。縄文の古い時代の土器に練りこまれた黒鉛は、破片で文字が書けるほど多く含まれているそうです。ぼくらが学校で習った歴史には含まれない歴史が、身近なところで今も息を潜めています。それは、祭りや神社や古墳や風習や方言となって、もはや分けることができないくらい深いところで、ぼくらの生活の深いところに存在しています。そんなこと知らなくたって生きていくのには困らない次代ですが、僕はそういうことを必要としない生き方は、なんだかとても危ういように思えてなりません。

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