これから綴るおはなしは、ほとんど本当ですこし嘘。みえないことばのぼやけた輪郭にふれる、ありきたりな日々の私小説。毎月一回お届けします。


うちでは「いらっしゃい」を言わない。

「こんにちは、ゆっくりしていってください」と言うようにしている。

ここはお店だけど、お店である以上に僕らの暮らす家なのだ。


そんな家に「ただいまー!」と言って帰ってくる友人が数人いる。

僕らの営みは全く丁寧ではないし、ましてやここは綺麗でもなんでもない。

でも、ここが落ち着くと行ってくれる人は多い。


丁寧だから心地がいいわけではない。

郷里であるこの街だって、特別に丁寧だとは感じない。

おそらく人は、心地がいいことを指して、便宜上「丁寧」と呼びたがるのだろう。

だとしたら、ここは丁寧な場所だ。少なくとも僕ら家族にとって、ここがとても心地良い場所であることは、疑う余地がない真実だからだ。


「またくるねー!!!」

そういって手を振りながら、川の向こうの道を降って行く友人達は、今度いつ帰ってくるのだろう?

いとこや親戚が増えていくような感覚が、ここで暮らしているとある。

それはきっと気のせいではないだろう。

こうして家族は拡大していく、そうしようと思っていなくても自然に。

それが煩わしい時もあるけど、それを上回るほどに愛おしくもある。

大切なことはめんどくさいことばかりだ。

そういうもんだと僕は思って暮らしている。


 家族といえば、実家にシロアリが出たそうで両親が慌てていた。

主にお金のことが心配で電話をしたら、

「お金は年金で賄うから心配いらないよ」

そう言われ「年金」というワードに老いを感じ、妙に歳をとったようでクラクラした。

これからも家族は増え、両親も自分も歳を取り不自由になっていく、大人になるということは自由になることではない、真実はその逆で「不自由」という「自分にしか出来ない役割」を喜んで背負って歩くことが「大人」になるということだ。

僕らは誰かの子供でありながら、誰かの親にもなり得る。

家族は拡大を続け、見ず知らずの土地が、「甥っ子の暮らす街」になったりする。

そういった実感を伴う感覚を「身体の延長」と呼ぶ。

そして、指の先まで神経が通っているからこそ、我が事として気が付ける。

街も家族もおんなじだ。