これから綴るおはなしは、ほとんど本当ですこし嘘。みえないことばのぼやけた輪郭にふれる、ありきたりな日々の私小説。毎月一回お届けします。



言葉は無力だな。そう思った。

腕の中でスヤスヤと眠る我が子の尊さを表す言葉が浮かばないのだから。

日課のように何らかの文書を書いているのに、この人生の感動と感謝を端的に言い表わす言葉が浮かばない。

言葉は無力だな。そう心から思う。

とはいえ、それはそれでいいのだろう。

喜びや悲しみは心の内にあればよくて、言葉にして語る必要はないのだから。

言葉の代わりに、ふと、口から出たのはいつか聴いた童謡や短い詩だった。

ゆらゆら揺れるリズムとよく合う。

”そうか、これが自然体だったんだ・・”

ふと心によぎるものがあった。


駅前でギターを弾いて歌っていた時期があった。随分と前のことだ。

そのころは本気で音楽で飯を食べていくんだ!と意気込んでいたが、如何せん才能と努力が足りなかった。

必死に生きていたには生きていたけれど、とてもじゃないが褒められたような暮らしではなかったし、ネタになる程過酷でもなかった。

あの頃の僕らは”ただ生きていた”だけだった。

しかも、どこか不自然だった。何かを背負いすぎていて、不格好に歩いていた。

”じゃあ、どんな暮らしが自然だったのだろう?”

そんな後悔にも近い感情は20代の後半まで続いていたが、いつしか考えなくなっていた。


結婚して、店を構えて、子供を授かる。

それだけを聞いたら”大人”になったように聞こえるが、そんなことは全然ない。

あの頃と変わったことと言えば、自分の”弱さ”が気にならなくなったことくらいだろう。

けっして”強く”なったのではない、”大人”になったわけでもない。

ただ”弱くてもいいんだ”ということを、腹の底から感じられるようになったのだ。

僕は大した人間ではないから過ちを犯す。

これまでもそうだったように、そしてこれからもそうだろう。

それは、息子を授かってもなにも変わらない。

親は”なる”ものじゃない、”慣れる”ものだと僕は思う。

僕はこれからも弱く脆くて、しょうもないことで悩んだり、人を疎ましく思ってしまうだろう。

それでいいじゃないか。

そうして少しづつ慣れていくのだ。

なりたい自分に、ならなければと描く自分に。

不器用なりに、少しづつ。


そんなことを考えながらぼーっと立っていたら、無意識に左右にゆらゆら揺れていることに気がついた。

無意識の揺れが蝉の声とリンクする。

こうして僕は親としての自分に”慣れて”いく。

弱くても不器用でもいいじゃないか。

息子にもそう伝えたいと思った。

気がつけばそんなことばか考えている。


あぁ、父親になったんだな。


そう思った。